明星ロマン-2
「あのう、すみません」
室井は話しかけられ、直後に警戒心を解いた。聞こえた声の雰囲気には若い女性特有のアクセントがついていた。
おどかさないでくれよ──安堵の吐息とともに腰を上げ、振り向く。
「タクシーの運転手さんですよね?」
相手にたずねられるまま室井は、
「ええ、そうですけど」
と応え、直後に目を見張った。色白の美人がそこに立っていた。
「やっぱりそうだ。よかったあ」
彼女は祈るような仕草をして目を細めた。
その無邪気な笑顔に室井はたちまち幻惑される。見た目の年齢は二十代半ばくらいか。
「どうかされましたか?」
表情を取り繕って室井が訊く。
「ちょっと困ったことになってて」
「と、言いますと?」
「じつは今、ストーカーから逃げてるところなんです」
彼女の台詞を聞いて室井はうろたえた。
「そりゃあ大変だ。とりあえず乗って、はやく乗って」
咄嗟にタクシーを勧めてはみたものの、頭の中はパニック状態だった。
あたふたと彼女を後部座席に乗せた後、あわてて自分も乗り込んだ。
その時、
「あっ、大変」
彼女が外を指差して叫んだ。ひいっ、と情けない声を漏らしたのは室井である。
どこだどこだ、と暗闇の中にストーカーの姿を探す。
「運転手さんの財布、まだあそこに落ちたままですけど」
「……財布?」
「ほら、自動販売機の前に」
いけねえ、忘れてた──合点のいった室井の行動ははやかった。
車外に飛び出すやいなや一目散に走って財布を回収し、素早くタクシーに舞い戻った。加齢のせいで息切れがひどい。
「ごめんなさい、紛らわしいことを言って」
後部座席から声をかけられるも室井は身振り手振りで、大丈夫です、と返すのがやっとである。
だがいつまでもここにいるわけにはいかない。
「ど、どっちに行ったら、いいんですか?」
声を詰まらせながら室井が訊くと、
「あっち」
彼女はタクシーの遥か前方を指で示した。吸い込まれそうなほど濃密な闇がそこに広がっている。
まさかこんなことに巻き込まれるなんて──冷や冷やしつつも室井は安全運転で車を出した。
こういう時こそ冷静にならなくてはいけない。
室井はバックミラーをのぞき込み、
「あぶないところでしたね」
と彼女に話しかける。
「もうだめかと思ってたんで、助かりました」
身を乗り出して彼女は言った。その顔に怯えの色はなかった。