筆さばき、色のとりどり-1
京友禅の工房の片隅。一人、居残りをしていたお絹は、色挿しの絵筆の手を止め、ため息をついた。
「角蔵さん、もう、あたしのことなんか振り向きもしない……」
筆を絵皿の上に置き、腰掛けに尻を乗せたままうなだれる。
「そりゃあそうよね。二十三歳になる行かず後家。取り柄といったら、こうして京友禅の絵柄に色を挿すこと……。黙々と筆を動かすことだけ……」
訳あって、江戸から京へと一人移り住んだお絹だったが、いざ来てみると、不慣れな土地、異なる習慣に難儀していた。そういう時に寺請証文の檀家寺への送付など、色々と面倒を見てくれたのが遠い親戚筋の角蔵だった。
「遠慮せんといて。なんでもわしに頼んだらええがな。あんじょう取り計らうさかい」
来年ようやく二十歳になろうという若さでありながら、早くに働き始めたせいか世情に通じていた角蔵。おかげで、落ち着き先の長屋も見つかり、奉公する染物屋への挨拶も無事済ますことが出来た。
その角蔵、なにかと親切で、お絹の長屋へよく到来物の菓子やら何やらを持ってきてくれた。そんなことが続くと、彼女の心の心張り棒も外れる。
ある日、角蔵が鱧料理をご馳走してくれた帰り道。彼は、ふと、裏通りへとお絹を誘った。そして、よどみのない足取りで出会茶屋へと彼女を連れ込む。お絹がためらうも、角蔵は熱心に口説いて、ついに、忍び逢いの小部屋へ……。
若い角蔵ではあったが、いったいどのような女性遍歴があったものか。流れるようにお絹の着物を脱がし、女体のあちらこちらをやわやわとまさぐり、彼女の身体に火を付けた。お絹とて未通女(おぼこ)ではない。男の一人や二人は知っていた。なのに嫁がなかったのは、これは、縁が無かったとしか言いようがない。
挿(い)れてからの角蔵の動きは精力的だった。一度果てても、そのまま交接を続け、お絹に喜悦の声を上げさせた。盛んに攻め立て、女の悦びを子宮(こつぼ)に刻ませた。
その後、半年の間、お絹は角蔵との逢瀬を何度も重ねた。しかし、次第に彼のほうから熱が冷めていった。彼女の長屋へ足を運ぶことも少なくなり、どうにか逢うことが出来ても、交情に以前の一途さは感じられなかった。こんなに身も心も捧げているのにどうして、と、お絹はいぶかった。
そうしてある日、お絹は見てしまった。角蔵が他の若い娘と仲むつまじく寄り添い、屋根舟へと乗り込むのを。もちろん行うことはただ一つ。川の上で、誰にも邪魔されぬ熱い交情だった。
その翌日、角蔵と合うことのあったお絹は、恨み言を彼にぶつけた。しかし男は、ぬらりくらりと言葉を躱(かわ)し、逃げるように立ち去った。
また別の日、町中で角蔵と出会った折、お絹のほうから言い寄ったが、やはり彼は何かと理由をつけ、彼女のわきをすり抜けて駈け去ってしまった……。
「角蔵さん、やっぱりもう、あたしのことなんて……」
仕事場で、がっくりと肩を落としていると、染物屋の主、嘉兵衛が姿を見せた。そして、やや枯れた声を使用人に掛けた。
「お絹。手が休んでおる」
静かだが底に意思のある声音だった。
「あ、旦那様」
慌てて絵筆を取ろうとした手が筆の柄に当たり、並んだ絵皿の向こうに飛んだ。
「すみません」
立ち上がろうとするお絹を制し、痩身の嘉兵衛はゆっくりと筆を拾い上げ、懐紙を取り出して汚れを拭うと、「ほれ」と言って彼女に手渡した。そして、お絹の豊かな尻の隣に貧相な尻を並べるようにして腰掛けた。
「おまえが京友禅の色挿しがしたい言うて、この白菊屋に来はったのはいつだったか……」嘉兵衛はお絹を見ず前を向いたまま言葉を続けた。「桜が終わり、藤の花が咲き始める頃であったかのう」
「はい。今は菊の季節。……ここにお世話になりましてから半年以上になります」
「半年以上になって、ようやく色挿しの、いろはの『い』を覚えたところで気に弛みが生じるとは、困ったやっちゃなあ」
「……すみません」
「色挿しする生地は、竹ひごで張っておらんとあかん。そやないと弛んで、絵柄も歪むでなあ」
「はあ……」
「職人かて同じや。仕事場では常に気い張っておらんとあきまへんで」
「……申し訳ありません」
「なんぞ、悩みでもあるんか? さっき、そないな顔しておったが……」
「いえ……。べつに……」
「なにがあったんか知らんが、そないに考えてばかりでは、このわしのように白髪になるで」嘉兵衛は自分の髷を軽く叩き、そして言葉を続けた。「ぐずぐず考えず、わだかまりは、さっさと解きなはれ。それがおまえのためにも、おまえを雇っているわしのためにもなる。……な」
嘉兵衛に諭され、こっくりうなずくお絹であった。
翌日、再び角蔵と会い、自分の思いの丈をあらためて伝えたお絹ではあったが、男はまともに視線を合わせようともせず、終いには、ぽつりとこう言った。
「わてら、もう会わんほうがよろし。……もう、褪めてもうたんや。かんにんな」
お絹が食い下がってもだめだった。取りすがってもだめだった。遠ざかる背中をただ見つめるしかなかった。