筆さばき、色のとりどり-3
数日後、お絹と嘉兵衛の姿が祇園の料理屋にあった。彼女を新しい染物屋へ紹介した、その返りに寄ったのだった。
「いや、これでわしの肩の荷が下りた。おまえの新しい奉公先、藤代屋との話が、あんじょうまとまって、ほんまによかったわ」
上機嫌で盃を取る嘉兵衛にお絹は礼を言った。そして、普段は口にすることのない高価な酒肴を前に、戸惑い気味の彼女だったが、嘉兵衛の酌で酒を口に含み、美味いものを食べているうちに幾分、この場に馴染んできた。そんな時、嘉兵衛がポロリと言った。
「ほんま云うとなあ、お絹。わしはおまえを手放しとうはなかったんや。これは見込みがある、色挿しの腕が上がる、思うて店に入れたのが、こういう形になってしまうとは……」
お絹は、ただ頭を垂れるしかなかった。
「ほんまついでに云うとなあ。お絹、おまえの面差しには、亡くなった連れ合いを思い出させるものがあったんや」
「えっ?」
「先に逝ってもうた女房に、おまえさんは良う似ているんや」
「そう……なんですか?」
「色挿しがしたい云うて、おまえが白菊屋へ飛び込んで来た時、わしはその顔を見て、内心びっくりしていたんや。それで、普通ならすぐに雇うことなどしーひんのやが、特別に……」
「そう……だったんですか」
「まあ、だからといって、おまえをどうこうするつもりはなかったんやが……」
嘉兵衛はそこまで言うと、後は黙々と盃を重ね、箸を動かした。お絹も何を言っていいのか分からず、ただ料理を口に運ぶしかなかった。
やがて、嘉兵衛の酒量がけっこう増えたと思われた頃、初老の酔漢が聞き取れない声で言った。
「お絹。おまえとはこれでお別れやが、最後にひとつ、わしの頼みをきいてくれへんか?」
「……なんでしょう?」
「一晩。一晩でいいから、わしに女房を思い出させてくれへんやろか」
「えっ?」
お絹は言っている意味が分からなかった。嘉兵衛は少し語気を強め、もっとあけすけに言った。
「今宵、……いや、今宵は酔いすぎてるからあかん。……明晩、明日の晩、わしと一緒に出会茶屋へ行ってくれへんか」
お絹は耳を疑った。白菊屋の主の口から出た言葉とは思えなかった。その本人は出てしまった言葉を引っ込めようもなく、荒々しく手酌で盃を満たしていた。
「……旦那様。ひとつ訊いてもいいですか?」
「……ああ」
「旦那様は、どうして儀助さんと私を娶(めあわ)せようとなさったんですか?」
「それは……、それはなあ、わしの気持ちに蓋をするためや」
「蓋……」
「年甲斐もなく、おまえに手を出してしまいそうなわしを押しとどめるために、儀助を使ってしもうたんや」
「……はあ。そう……でしたか」
お絹は斜めにうつむいたまま、畳に目を落としていた。ちらりと嘉兵衛を見ると、酔ってそうなのか恥ずかしくてそうなのか分からないが、とにかく彼は赤面していた。そして、彼女は思いがけなく、そんな嘉兵衛に可愛さに近いものを感じた。
(普通なら、酔ってしまう前に何かと理由をつけて私を強引に出会茶屋へ連れ込むところ……。それを、この人はそうしない。……いい年だから初心(うぶ)なんてありえないけど、この嘉兵衛さんは……)
様々な思いがお絹の心を巡ったが、ようやくのことで彼女の口から出たのは、断りではなく、承諾の言葉だった。
「おおきにありがとう!」
嘉兵衛は座ったまま後ずさりし、頭を下げた。酔っているので動きが派手だった。
「やくたいな頼みを聞き入れてくれはって、ほんま、おおきに」
低頭する白髪交じりの町人髷を見下ろすお絹の瞳には、和みの色があった。
次の晩。お絹は先斗町へ行き、示し合わせた橋のたもとに立っていた。やがて、闇の中、揺れる提灯が近づいてきて、それが嘉兵衛だった。
「待たせたな、……かんにん」
語調は落ち着いていた。昨夜の嘉兵衛は、やはり酒に酔っての態度、口調だったようだ。
二人は肩を並べて川沿いの道を行き、小路を折れ、暗い闇の中へと溶け込むように入っていった。
出会茶屋にしては幾分広めの部屋であった。蒲団も、こういう茶屋にしてはふっくらしており立派なものだった。ただ、色遣いが派手で、緋色と京紫の太い格子縞が淫猥な雰囲気を醸し出していた。
お絹が行灯のそばに座っていると、嘉兵衛はおもむろに着ているものを脱ぎ始めた。やがて、下帯まで外すと、行灯の明かりに初老の裸体が浮かび上がった。貧相とも言える痩身だったが、股間で垂れている「男」は妙に存在感があった。大きめの亀頭が、蒲団と同じ京紫色だった。
伏し目がちのお絹に向かい、嘉兵衛は着物を脱ぐようにと促した。少しためらった後、静かに立ち上がり、お絹が衣擦れの音を微かにさせながら袷を脱ぎ、襦袢を取り、腰巻きを外すと、ほれぼれするような女体が男の目の前に現れた。手に余る量感の乳房、ほどよくくびれた胴回り、搗きたての鏡餅のような尻……。
(着物の上からでも、たいそな肉置(ししお)きやと思うておったが、これは見事な……)
嘉兵衛は生唾を呑み込んだ。