筆さばき、色のとりどり-2
相変わらず仕事に身の入らぬお絹だったが、ある日、筆先が誤り、絵柄をはみ出して色を塗ってしまった。
京友禅は様々な作業が積み重なっている。露草の青い汁を用いての下絵描き。筆で染色しても隣同士の色が混ざらないようにするのが目的の、絵柄に沿って糊を絞り出す糸目糊置き。これらの工程を経てようやく、細かな模様への色挿しとなるのだが、お絹の失敗で今までの作業が台無しとなってしまった。
「こいつに色挿しが勤まるか、前々から危ぶんでたんやが、とうとう生地ひとつ、わや(台無し)にしてしもうた。旦那様、こないな難儀なやつ、使い物にならしまへんで」
職場の年かさの男が嘉兵衛に苦情を言っていた。店の主は「まあまあ」と使用人の剣幕を抑えていたが、「ここはひとつ、わしに任せておくれ」と、お絹の処分は自分が直に行うことを皆に示した。
「さあ、付いておいで」
嘉兵衛に言われるまま、しょんぼりとお絹が店の奥へと歩を運ぶ。京の町家は間口は狭いが奥行がある。叱られる身にとっては嘉兵衛の部屋へたどり着くまでが長く感じられた。
「まあ、お入り」
促され、土間に履き物を残して畳に上がった。店の主の居室にしては狭い部屋だった。が、箪笥は立派で黒光りしており、その横の仏壇も豪勢な造りだった。それにお絹が目をやっていると、
「ここに、連れ合いの位牌がある。おまえさんがこの白菊屋にやってくる半年ほど前に亡くなってもうた。四十五……。せっかちな性分やったが、逝くのも早すぎたわ……」
お絹が言葉を返せずにいると、嘉兵衛は床の間を背に座り、使用人にも着座を促した。
白菊屋の主は静かな口調でお絹を叱り、職人の心の持ち様を懇々と言ってきかせた。そして、それが一段落すると、畳を指でトンと軽く叩いた。
「ところで……、お絹」
「はい……」
「どやろ、おまえ、縁づく気ぃはないか?」
「えっ?」
「嫁ぐつもりで、付き合ってみる気はないか?」
お絹は嘉兵衛の顔を見つめた。
「旦那様と、ですか?」
その返答に嘉兵衛は大笑した。
「いやいや、違う……。この白菊屋の古参、色挿しの腕前は折紙付きの儀助とや」
儀助は、つい先程、お絹を使い物にならないと罵倒した男だった。
「あいつの物言いは真っ直ぐすぎるが、根はいいやっちゃ。だが、堅物。そのせいで今まで嫁の来手がなかった。そこで相談なんやが……」
嫁ぐどうこうは先の話として、まず儀助と付き合ってみないかと嘉兵衛は改めて話した。突然のことに返答を迷っているお絹に、店の主は柔らかく言った。
「着物を美しくする技は、昔、草木染め、摺込み染めなどがあった。そこに、目先を変えてみよう云う人物が現れた。宮崎友禅斎や。彼のおかげで新しい友禅染めの手法がでけた。……男女の仲もこれと同じや。一人の男を未練たらしく追うよりも、新しい男と付き合うてみなはれ。良いほうに転ぶかも知れへんで」
お絹の膝の上に置かれていた手が微かに強張った。
(一人の男を未練たらしく追う……。旦那様は角蔵と私のことを知っていたのか……)
「馬には乗ってみよ人には添うてみよ、云うやないか」
嘉兵衛は言葉を継いだが、お絹はなかなか首を縦に振らなかった。しかし、根気強い嘉兵衛の説得で、とりあえず付き合ってみるだけ……と、ついには承諾したのだった。
儀助とは仕事返りに二人して食べ物屋へ寄ったり、かんざし屋へ入ったりしたが、ぎこちない雰囲気だった。それでも逢瀬を重ねているうちに、どうにかこうにか出会茶屋へ入るところまでこぎ着けた。
しかし、茶屋での儀助にお絹は幻滅してしまった。彼はあまりの緊張に、「男」が立たなかったのである。気まずい雰囲気のまま、茶屋を出た二人だったが、その気まずさは仕事場にも持ち越された。儀助は何かとお絹に厳しくあたり、時には度を超すこともあった。お絹も萎縮し、色挿しの筆は鈍るばかり……。
嘉兵衛は自分の勧めた話が上手く運ばなかったばかりか、こじれる様子を見て腕組みをした。そうしてある日、お絹を自室に呼んだ。
「申し訳ないことをしたな」
店の主に頭を下げられ、お絹はいったん座った腰を浮かせた。
「儀助。あいつがあれほど、どんくさいやつとは思わんかった。かんにんしてな……。だが、このままでは色挿しの職場の空気が悪すぎる……。かと云うて儀助をどうこうもでけへん。そこでだが……」
嘉兵衛はお絹に店を辞めてくれないかと持ちかけた。もちろんすぐに次の働き口は用意する。知り合いの染物屋への紹介をする。迷惑を掛けたぶんの給金もはずむ。だからここはお絹が儀助の前から消えてくれないか、ということだった。お絹とて今の白菊屋は居心地が悪かった。色挿しの仕事が出来るのであれば他の店でも構わなかった。
「旦那様に頭を下げられて、どうして首を横に振れましょう。……ここに来て一年にもなりませんでしたが、今までありがとうございました」
畳へ丁寧に手をついた。
「おお。そうか。……そうか」
嘉兵衛は安堵したように見えたが、その顔には惜別の色も淡く浮かんでいるようだった。