僕をソノ気にさせる-7
このままでは重篤な精神病にかかってしまうと考えた祖母は、夫が逝った後もそのままにしてある書斎へ優也を連れて行った。
「時間はいっぱいあるけど、本もいっぱいあるから、この本棚、全部読みなさい。納戸にもたくさん眠っているからね」
国語教師だった夫は読書家であると同時に神保町での買い漁りが好きな収集家でもあったから、膨大な量の本を遺していた。言われたとおりに優也は一冊を手に取り読み始めた。児童文学は殆ど無い。分厚い本は重そうだったから、最初に手に取ったのは池波正太郎の文庫本だった。難しい漢字が多く、時代物は背景の理解も必要で、なかなか読み進められなかった。インターネットで調べつつ、やがて話の内容が分かってくると、次の巻が楽しみになるほどに惹かれて一気に読み終えた。『鬼平犯科帳』を読み終えると、優也は別の本も手に取った。
夫の書斎の大きな机にちょんと座り、体に対して大きい本を開いている姿に、不登校という状況は克服出来ていないが、祖母に一抹の安堵がもたらされた。やがてベッドやタンスを書斎に運び込むと、そこは優也の部屋になった。
「本読んでるったって、それだけじゃんかよ。ちゃんとした教育を受けさせたほうがいいっつってんの。この前ちょっとだけアイツの勉強、確認してやったけどさ、漢字は俺にも読めねえ字、やたら知ってんだけど、数学はヤバいぜ? 小学校の算数から完全に止まってる。このまま中卒以下でいさせるつもりかよ? 施設がだめなら、せめて塾にだけは行かせるとかさぁ」
「塾ったって学校と一緒だよ。他の子がいるじゃないか」
「俺だって、優をイジメた奴にはハラワタ煮えくり返ってるぜ? でもよ、このままじゃ絶対優のためになんないって」
智樹は祖母からイジメの話を聞いた時の憤りを思い出して、グラスに残っていたビールを一気飲みをすると、空いたグラスを置かずに手酌で瓶を傾ける。
「――家庭教師ってのはどうだ?」
伯父が息子と母親の会話から思いついて言った。「家でやりゃいいんだよ。それならおふくろも安心だろ?」
「家庭教師って、テレビで宣伝やってるあれかい? 信用できないね。どうせ金儲けでやってるんだ。こんな事情を抱えた子、真面目に見てくれる人なんていやしないよ」
祖母の不信は学校だけではなく、現代の教育関係者全員を猜疑の目で見てしまうまでに広がっていた。
「そうだ」
祖母は智樹の置いたグラスの傍に手をトンと付き、「智樹、あんたがやればいいんだよ。K大出たんだから」
つまみに手を伸ばそうとしていた智樹だったが、
「俺!? 無茶言うなよ。俺が勉強まるでダメなの婆ちゃんも知ってるだろ」
と手を顔の前で激しく振った。
中学時代から関東でも有力な長距離選手だった智樹は、高校は駅伝の強い千葉の有力校に進み全国を目指したが、エースとして臨んだ二年、三年時には、チームに恵まれず出場権を逃し、高校卒業時に望んだのは箱根駅伝常連校だったがスカウトの声はかからず、仕方なく監督に推薦してもらったK大に入って出場権獲得を目指した。そして三年生になったとき、もともと悪くしていた腰が完全に壊れてしまって選手を諦めなければならなくなった。だがその後も部を去らず、マネージャとして真面目に、献身的に尽くしたことが評価され、関係者がOBに働きかけてくれた大手の損害保険会社に入ることができたのだった。今でも腰を悪化させない程度にランニングを続けている。
「そうだねぇ……、そのとおりだねぇ。智樹は昔っからかけっこだけだったからねぇ」
「だからって婆ちゃんひでぇこと言うなよ。俺だって優と同じ孫だぜ?」
しみじみと言う祖母に、テーブルに出されていた小鉢を突つきながら、言い返せないだけに苦笑をして智樹が呟くと、
「確かに当たってるな。お前は足が速いってだけで、K大卒なんて言う身分違いの肩書もらえたんだからな」
と、伯父も息子を笑ったから、少し険悪だった場が和んだ。
「美智子に頼もうかねぇ」
「アイツにはムリだろ。クソ忙しい看護婦になに無茶言ってんだよ」
伯父が娘にも期待できないと告げると、
「看護婦じゃなくて看護師だよ。……じゃぁ、何にしても家庭教師なんて無理じゃないか」
溜息をつく祖母を見て、煮付けたイカを噛んで暫く考えていた智樹が、
「婆ちゃんさ、月謝はそれなりに払えるんだよな?」
と言った。
「ああ、金だけなら、普通の塾にでも行かせられるほどはあるよ」
「……そうか……」
と、智樹はあぐらを組み直して、「じゃぁ、俺の知り合いに頼んでみるか? 優がヤバいのは数学……、っつーか算数だろ? だから数学が得意な方がいいだろうし。学校の後輩にきっと得意な子がいるんだ。まだ学生だから引き受けてくれるだろ」
「そんな誰とも知らない人に任せるなんて……」
「まあ、本人がOKしたら一回連れてくるから、婆ちゃんも会ってみりゃいいんだよ。なかなかいい子だぜ?」