僕をソノ気にさせる-46
「……私は、……無理です」
「待ってくれよ」
電話を切られると思った智樹は、葬式のあとからのことを全て話した。寂滅を求め、しかしどう足掻いてもそれが成らぬことに、いっそ優也にまつわる一切を断ち切ってしまいたいとすら願っていた杏奈は、優也が東京を離れると知って心を惑わした。電話の向こうの様子を察知した智樹が繰り返し頼み込んでくる。
「なぁ、……優がいわきに行けるようにしてくれよ」
「……」
優くんが東京を離れていく後押しを私がするわけないじゃないですか。そこまで言いそうになるのを潰れそうな気持ちで抑えていた。だが心の奥底に、優也をいわきに行かせるべきだ、部屋に閉じこもるのは自分だけでいい、そんな声が漂う。優也まで自分と同じような沈濁の底に埋めるわけにはいかない。
「お前しかいないんだよ。……婆ちゃんのかわりじゃないぜ? 優をいわきに行かせることができるのは、お前しかいないんだ。だろ? 俺がお前に物事を頼める筋じゃないのは分かってんだ。悪い。……でも頼むよ。最後のお願いだ」
最後、の言葉が杏奈の中に響く。優也にとっての杏奈を終わらせてくれ、という意味まで含んだように聞こえた。
「……今日、行けばいいんですか?」
そして、自分にとっての優也も――、ずっと部屋にいるわけにはいかない。部屋に居らせるわけにもいかない。心の奥底に興った一縷の思いを、智樹に水面まで引き出され、果たして杏奈は優也の家にやって来た。
食べかけの素麺を眺め、
「晩御飯、ですか? あれ」
と問うた。
「ああ。……優は昨日から何も食べてねぇ」
廊下の先を見た。あのドアの向こうに優也がいる。
「……ま、マズいソーメンだけど仕方ねえ。食い物粗末にすると、婆ちゃんに殺されるからな。俺はここで食ってるよ。何かあったら、呼んでくれ」
智樹はキッチンに入りドアノブに手をかけて振り返ると、「タンスでドア塞いでたのはどけさせた。中にいるぜ。……お前を待ってる」
と言ってから閉めた。
杏奈は優也の部屋の前まで行き、じっとドアを眺めていた。
「……こんばんはっ」
やがて振り絞った声はいつもどおりに明るい。「んー? どぉしたの? 今日は本、読んでないんだね」
部屋に入ると、優也は椅子に座って全く動かなかった。勉強机には何も乗っていない。暴れた跡もなく、いつもどおりの部屋に優也はぽつんと座っていた。
「なーんか、たしか、いつかもそんなことあったねー」
杏奈に叱られて、もうやってこないことを案じて優也が泣いた日だ。杏奈も憶えている。あの時抱きしめたのが、始まりだったのかもしれない。
「……何しに来たの?」
優也は隣の椅子に座る杏奈を見ず、何もない机上の虚点を見つめながら言った。
「んー? ……うん」
「もう、来るつもりはないんだって思ってたけど」
杏奈は脚を組んで、机の上に片肘をついた。手に顎を乗せて微笑を浮かべ、
「そうだね。今日が最後、になっちゃうね」
行儀が悪くて、つい優也の前でも大人の女らしい上品な姿勢を保てなかった。しかし今日は、わざとだった。最後だけ、凛と澄ますよりも、今まで通り……。
お願い、こっちを見ないで。そう願いながら、優也の横顔へ努めて作った笑みを向けた杏奈は、懸命に語りかけ続けた。
「優くんの数学は、もう安心レベル、だよ。普通の中学生よりもできちゃうくらいだと思う」
「……じゃ、もう先生は用無しなの?」
優也が口にした言葉は、心臓に鋭い釘が打ち込まれたかのように思えた。
「うん……。……用無しかなぁ。もう、お役御免で、大丈夫だよ」
声が震えないように気をつけ、「……私がいなくても」
「先生にとっても、僕は用無しなんだ?」
胸に刺さっていた釘尻に更に槌が打ち付けられる。
「……用があるとか、無いとかじゃないよ」
杏奈の言葉に優也がこちらを向いた。目が赤い。椅子のキャスターを進めてきた。顎から離した杏奈の手首を握り、椅子から乗り出すように身を近づけてくる。
「優くん……」
優也の唇が迫ってきて、杏奈は顔を伏せた。
「用無しだから、もう、よけるんでしょ?」
「ちがうよ」
今度は顔を伏せたその頭上から、優也の槌が振り下ろされてくる。
「先生は僕を福島に行かせたいんだね?」
違う。
「そうだよ」
「……ヒドいよ、先生」
優也の声が泣き笑いに震えている。「キスさせたくせに」
「……うん、ごめんね」
「キス以外もさせたくせに」
「うん……」
ダメだ。俯いた視界に映る、優也を想いながら横浜で買ったスカートの襞がゆらゆらと歪み始めた。
「……先生。好きだよ」
鼻をすすった杏奈は、大きく息を吐き、
「うん……」
「先生は……」優也が俯く杏奈の耳元に口を近づけ、頭の中へ直接訴えるかのように、「僕が好きって言っても、先生の方から好きって言ってくれたことはなかった。一度もね」