僕をソノ気にさせる-43
「……あの、えっと」
何と言えばいいのだろう。目眩めましいほどに、様々な思いが杏奈を混乱させた。
「先生、お手を出してくださいません?」
「……え?」
「手ですよ」
優しい口調で、祖母が自分と杏奈の団子皿を横に退け、両手をテーブルの上に置いた。杏奈は恐る恐る、手汗が滲んでいる手を同じようにテーブルに差し出した。祖母は小刻みに震えているその両手を自分の手に置き、甲の上から更に手を置いて挟んだ。シワが多く渇いた手だったが、その感触が妙に心地よい。
「……先生」
「はい……」
「優也を好いてくださってありがとうございます」
「……」
祖母はどこまで気づいているのだろう。どこまで知っているのだろう。手を握られて心地よい感触を送られながらも、それ以上の混乱が杏奈の頭を蝕み、顔を俯かせる。
「あ、あの……、私……」
「……軽井沢で」
その場所を聞いて杏奈はハッと顔を上げた。視界の先にある祖母の姿、その周辺が白く霞んで徐々に視界を狭めていく。
「私……、夜にね。……先生と優也が……。ごめんなさいね、見てしまいましたの」
その言葉に、荒くなって息ができなくなった。喉が風のように鳴り、歯が震えて音を立てた。
「先生……。先生……、落ち着いてください」
手が甲を頻りに擦っているが、祖母の声が遠くに退いていく。
終わりだ。見られていた。ごめん、瑞穂、間に合わなかった……。
杏奈は祖母の手を振り解き、立ち上がってテーブルの傍に這いつくばって土下座をしようとした。こんなに自分を信頼してくれている、優也を愛してやまない祖母を裏切った。軽井沢から帰った後、部屋の中で目を盗んで淫らなことを行っていたことも知っていたのだろう。心当たりがない? その言葉を祖母はどんな思いで聞いたのか。
だが、そうしようとした時、祖母が老人とは思えないほど力強く杏奈の手を握ってさせなかった。靄の中で、祖母がこちらを見て首を横に振っている。
「申し訳……、申し訳ありません……」
杏奈は手を握られたまま、テーブルに額を擦りつけた。謝っても許されない。だが、こうしなければ身が破裂してしまいそうだった。
「どうしてお謝りになるの?」
「……申し訳ありません。……償います。どんな形でも、償います」
「先生」
「あの、家庭教師は、もう……、もちろん、辞めます。今までの月謝も、お返しします……。申し訳ありません……、本当に、申し訳ありません」
「先生」
祖母の手が甲を離れると、杏奈の頭に置かれた。触れられるだけで和ませるような優しい手だった。その手が杏奈の髪を撫でていくと、不思議と杏奈の荒かった呼気が収まっていった。
「謝るのは、私のほうだと申し上げてますよ?」
「……」
祖母の言葉に顔を浮かせると、テーブルに涙が広がっていた。泣いてどうにかなるものではないのに、杏奈は今日も枯れることなく泣いてしまっていた。
「お辛い思いをさせてるんですね。優也を好いてくださったばかりに。そうでしょう?」
「……」
「先生。私はこんなお婆ちゃんですけど」
手が頭から離れ、ハンカチで涙を拭ってくれる。「私も、女ですよ」
「……だって」
「そりゃそうですよ。……あんな子、愛してくださったら、きっと苦しいに決まってますよ」
「でも、私は……、優くんと……。その……」
「淫らなことをした、とご自分を責めてらっしゃるんでしょ?」
「う……」
祖母に言われて、呻いた。そうだ。どうしてこの人は私を責めないんだ。二十三の女が十三歳の男の子を姦していたのだ。「私が、悪いんです……。私が、そうさせたんです……。こんなことになったのは、すべて」
「世間様はそう思うでしょうね、……でもね」
祖母はハンカチを仕舞い、再び杏奈の手を強く握った。
「嬉しかった……、んだと思います。そりゃぁね、手すりから見下ろしたら、優也と先生が抱き合ってましたから、びっくりしましたよ。でもそれを見て、『ああ、よかった』と思いましたの。幸せでした……。確かに、道徳には反しているかもしれませんよ? でも、自分の可愛い孫が、好いた女の人と結ばれている、それを見てとてもとても嬉しかったんだと思います」
「……」
「好きになったんですもの」
祖母は微笑で杏奈の瞳に応えた。「仕方ありませんわよねぇ?」
また涙が、しかし昨日からのものとは異質の涙が溢れて、顎から落ちた。靄が晴れていく。誰にも言ってもらえなかった言葉を、最も知られてはいけない人からもたらされた。