僕をソノ気にさせる-41
「えっ。あ、はい……」
「こちらへどうぞ」
店員は杏奈を少し奥まったところにある障子戸の中へ導いた。仕切られた個室の中では、いつもより高級そうな着物で、帯留めも華やかな祖母が座って待っていた。
「あら、お早かったのね」
「す、すみません、お待たせしまして。……えっと」
このような店に来たことがないから、何をどう頼めばよいか分からない。すると祖母が、
「あ、勝手ですが、先生の分ももう頼んでおりますの。……持ってきてくださる?」
と言うと、店員は会釈をして障子戸を閉めた。
「わざわざ来て頂いてすみませんね」
改めて祖母が礼を言うと、杏奈は首と手を振り、
「いえっ、別に、その……。何もすることがないもんで」
何もすることがないから、あんなことを思い浮かべ、あんなことをしていたのだ、と胸の苦しさを押し殺して作り笑いを浮かべた。
「先生……」
にこやかに杏奈を見守っていた祖母が充分間を置いて何か言いかけたとき、障子戸の向こうから声がかかった。店員が玉露茶に、みたらしとあずき餡の団子を運んでくる。「……どうも。先生、こちらのお菓子、おいしいの。このお店、私が若い頃からありますのよ」
「へぇ……」
もう一度部屋の中を見回した。確かに歴史がありそうな佇まいで、しかも麻布の奥まった場所にあるので静かで落ち着く。
「いただきましょう」
祖母がお茶を啜り始める。薦められて食べないのも失礼なので、手をつけようとするが、串に二つ刺さった大きめの団子を見て、祖母好みの上品な食べ方が分からずにいた。
「先生。お気になさらず。串のままお食べになればいいんですよ」
杏奈の戸惑いを察した祖母が微笑みのまま言ってきた。
「あ、はい……」
「私も、お爺さんとここへ来て、大口開けて食べてましたからねぇ」
祖母につられて杏奈も笑い、それでは、とみたらしを手に取り、口に入れた。半分に囓っても大きく、慌てて杏奈は手を添えて顎が動くのを隠す。
(しまった、口に入れる量間違えちゃった……)
祖母が許したにしても、口に頬張った量が多すぎて、とても上品とは程遠いように思えた。たっぷりと口内に広がった味は杏奈が今まで食べてきた中でも段違いで、まだ全て喉を通していないうちから、もう一口齧りたくなる。
「……本当、美味しいです」
漸く話せるようになって、正直な感想を漏らし、玉露を取って啜った。祖母はそんな杏奈の様子を楽しそうに見ている。
「でしょう? 気に入っていただけてよかったわ」
「はい。今度、一人でも来ちゃいます……」
本当に美味しいし、雰囲気も良い。杏奈は自宅の近くに良い店を見つけることができて嬉しく思った。
「でも、ウチの人間には内緒ですよ」と、祖母が少し顔を前に出し、小声で言った。「誰も連れてきたことがないんですよ、ここ。子供たちを連れてきたことありませんし、孫たちも。もちろん、……優也もね。お爺さんと私だけの思い出の場所」
優也の名を出されて一瞬心臓がぎゅっと絞めつけられたが、
「そんな場所に私……、いいんですか?」
と申し訳なさそうに杏奈が言うと、
「ええ、先生とここに来たいと思ってましたの。久しぶりですけどねぇ……、この店にきたのも」
祖母はしみじみと言う。杏奈は祖母の様子を見ながら、おそらくは優也を引き取ってからは、このような店は一度も来ていなかったのではないかと思った。きっと嗜好を断って、優也を育ててきたのだろう。
「……先生」
「はい……?」
祖母のこの十三年に想いを馳せていた杏奈に祖母が改まった声を掛けた。
「……ごめんなさいね」
「えっ? ……何が……ですか? え、ちょっと、お、お婆ちゃん……」
座ったまま深く頭を下げる祖母に驚いて、思わず腰を浮かせた杏奈は祖母の肩に手を添えて身を起こさせようとした。
「申し訳、ありません。智樹が……、……先生に辛い思いをさせてしまいまして」
「あ……」
何故知ったのだろう? 杏奈は訝しがりながらも、「いえ、と、とにかく、そんな……。謝らないでください。お願いします」
頻りに言うと、祖母はやっと顔を上げてくれた。
「あの子は、ほんと、バカなんですよ……。細かいところに気が回らないくせに……」
深い溜息をつき、「あの頭の悪さは、誰の血筋なんでしょう……。頭が悪いだけじゃなく、女癖まで……」
祖母は本当に申し訳無さそうな、困った顔をして、こめかみに手を置いている細く首を振った。
「あ、あの……、智樹……さん、が?」
先輩と呼び忘れてしまったが、祖母は全てを知っていると分かったのだから、探るように伺うと、
「まあ、あの子の場合、何もかも顔に書いてあるんですよ。少し問い詰めたらね……。本当、あの子にどう償わせたらいいか……、申し訳ありません。もう、あの子のことは捨ててしまってください。どうしようもない子なので」