僕をソノ気にさせる-29
軽井沢に着いた頃には夕方も遅い時間になってしまっていた。コテージは山肌の森の中にあり、静寂としていた。それを破るように腹が減ったと喚いた智樹が車に積んできたバーベキューセットを早速下ろすと、女性陣が食材の準備をしている間、先んじて智樹と俊彦が飲み始めた。キッチンから払い出された食材が並べられ始めているのに、男二人は何もせずに酒に舌鼓を打っているので焼き台に火が入っておらず、優也は二人といてもつまらないので、縄で縛ってあった炭を並べ始めた。ブロックで囲われた焼き台の中に炭を詰め込むのではなく、着火剤を中心に置き周囲を小枝で囲み、周囲に炭を立てるように並べていった。
「――火、優くんが点けてんの?」
着火点の長いライターを手に持った時、背後から声をかけられた。振り向くと野菜が山のように盛られたザルを置いた杏奈がいた。
「うん。……だって」
チェアに座って大笑いをしている智樹と俊彦の後ろ姿を見やる。同じく見た杏奈が苦笑いをしたあと焼き台の方に近づいてきた。スキニージーンズにネルシャツの前を結び、今まで台所仕事をしていたために肘まで腕をまくって、髪をサイドに留めている。その姿は勉強のときとも、二人で渋谷に出かけたときとも違って、優也には新鮮に見えた。
「点けたことあるの?」
「ううん……。ない」
優也はライターで焼き台の中央に置いた削り屑に火を付けた。中央から煙が上がり始め、やがて火種は着火剤に移る。黙って二人でその様子を見守った。やはり今日の杏奈の口数は少なかった。沈黙が嫌になった優也が、
「火は、僕がやっておくよ」
と言ったが、杏奈は眉尻を下げ、
「……私、あそこに居てもあんまり役に立たなかった。だって、お婆ちゃんと美智子お姉ちゃん、すごいんだもん……。女子力のなさを見せつけられてるみたいで、ミジメになってくるんだよねぇ」
中央で燃え始めた着火剤の炎の行方を見つめたまま、恥ずかしそうに笑った。
「先生、料理できないの?」
「できるよっ、……たぶん。でもお婆ちゃんの年季には敵わないでしょ?」
「一回作ってみてほしいな」
「……試験管とかビーカーとか使っちゃうよ」
杏奈が言うと、炭の表面が煙とともに白みがかってきて、やがてその身を赤く光らせ始めた。「……すごいね、優くん。一発で点いちゃった」
「『燃焼に必要な空気を確保』したから?」
「ん? ……ああ、『ロウソクの科学』か」
「だから、先生のお陰だね」
優也の言葉にニッコリとした笑顔を向けてくれたが、それはやはり努めてそうしているように見えた。元気のない理由を杏奈に質したかったが、うまく切り出せずにいると、サボっちゃだめだね、と独り言を言うように杏奈は祖母たちの元へ戻っていった。
祖母と杏奈、優也はたくさん食べる方ではない。だが他の三人は違った。そして飲む。最初は小言を言っていた美智子だったが、二人が地酒を開け始めると、これに混ざって同じように飲み始めた。下品に酒を煽る孫二人に顔を顰めながらも、祖母は楽しそうにしていた。
杏奈はといえば、ビールを少し飲んでいたが、チェアに腰掛けたまま時折焼き台の中で赤く燃える炭の一点をじっと見つめている。優也は心配して見ていた。
「あら、先生、どちらへ?」
不意に立ち上がった杏奈が祖母に声をかけられて、
「ちょっとお手洗いに……」
「まあ、暗いのに……。お一人で大丈夫ですか?」
「はい」
会釈して祖母の隣を立ち去るのを見て、優也が杏奈を追おうとしたが、タイミング悪く酔っ払った美智子が絡んできて立ち上がることができなかった。
トイレから出た所にはデッキがあり、杏奈は手すりに凭れて景色を見ていた。周囲は完全に夜となって、鬱蒼とした森のシルエットの向こうに山裾の街灯りと星空が見えた。木の葉を鳴らして風がそよぐ。
「よう」
かけられた声を聞いて、その主が分かったから特に振り返らずに、
「……何ですか?」
とだけ答えた。智樹は手すりまでやってきて、少し離れたところに凭れかかる。
「誰も居ないんだから、敬語なんか使わなくたっていいぜ?」
「野菜もろくに切れないほど、器用じゃないんで」
「何だよ、機嫌悪いなぁ……」
智樹は苦笑して身を反転させると、手すりを背負い肘を乗せた。
「……誰のせいですか?」
流れてくる風に髪を抑え、杏奈は街の中に一定のリズムで点滅している赤信号の光を見続けていた。
「俺のせいなの?」
「そう思ってないとこがスゴいですよね」
「……あ、ちょっと待て。今、痴話ゲンカすんのよそうぜ? 姉ちゃんと俊彦さんに悪ぃよ」
智樹は杏奈に向けて肘を付いたままの手の甲を振った。
「そうですね。私も酔っぱらいとまともにケンカできると思えませんし」