僕をソノ気にさせる-28
唇の一センチメートル前、鼻先が擦れ合うまで顔を近づけても杏奈はよけない。よけないということは、キスしていいということだ。杏奈と出かけた日から部屋で何度もキスをしていた。一度も杏奈に拒絶されたことはなかった。杏奈はおよそ二時間の勉強時間を休憩を挟んで前半、後半に分けていた。優也は勉強を教わっているときは決して杏奈にキスを求めなかった。勉強中にそんなことをしたら、きっと杏奈は本気で怒る、優也はそれがよくわかっていた。そんなことしたら二度とさせてもらえないかもしれない。もちろん杏奈とキスをしたい。いつでもしたい。だが、勉強中はケジメをつけて全力で取り組み、「よし、終わり」と杏奈が終了を宣言するまでは懸命に我慢をしていた。
「……だからって、急にチューするの?」
「先生と軽井沢に行けて嬉しいから」
密めて囁き合うその言葉を聞いて、杏奈は思わず自分から残りの距離を詰めて優也の唇を啄んだ。顔を離し、すぐ前にある優也の瞳に吸い込まれそうになるのを、
(……ヤバいって)
と、一大決心で頭を引いて距離をとり、
「はい、じゃ、後半始めまーす」
殊更大きな声で宣言した。
――智樹の借りたミニバンは、大宮まで出てきた姉と婚約者を拾った。駅のロータリーで久しぶりに会った美智子は開口一番、
「おー、優! ちょっと見ない間にカッチョよくなったね!」
いかにも頼りがいのあるガッシリとした手で両肩を痛いくらいに叩いた。美智子はちょっと見ない間に更に恰幅がよくなったが、それは言わず、
「美智子お姉ちゃん、結婚おめでとう……」
美智子の圧に半ば怯みながらも、祝辞を述べた。
「おっ、どうした。生意気なこと言いやがって!」
と今度は背中を叩いてガハハと笑う。
「あの、……今日はお世話になります。須藤です……」
杏奈も豪快な美智子に、割って入るタイミングを躊躇していたが、何とか挨拶を差し入れた。
「あぁ、これはこれは……」
美智子は弟のほうをチラリと見てから、「優の家庭教師さんでしょ、聞いてますよぉ。優とお婆ちゃんがお世話になってますぅ。何か婆ちゃんが無理言って追いてきてもらってすみませんねぇ……。おいおい、優っ、超カワイイ先生じゃーん!」
美智子は杏奈が恋人であることを知っていたし、その後の進展についても聞いていたが、今日の弟の表情から何となく不穏の空気を察知していた。まだ空気が読めない優也は、杏奈が賞賛されたことが嬉しくて、
「美智子姉ちゃんの旦那さんも……」
美智子の幅広の体躯の背後に隠れかかっている、髪が薄くなったメガネの中年をチラリと見て、「やさしそうだね」
「おー、忘れかかってた」
美智子が俊彦を呼び寄せ、皆の前に差し出す。「コレが未来のダンナ」
「大和田です。皆さん、どうかよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる俊彦の隣で美智子は優也の応対に内心驚きつつ、
(なるほど、優がここまで……、こりゃスゴいわ。婆ちゃんが信頼しきっちゃうわけだ)
と杏奈を眺めていた。
「いつまでそこにいるんだい。暑いだろ」
日差しを避けて車の中に残っていた祖母が声をかけてくる。
「それもそうだ。ほら、乗った乗った。早くしねえと混んじまう」
智樹に急かされて再出発したが、関越道はやはり混んでおり、間欠渋滞に何度もつかまった。車内では隣同士に座った俊彦がずっと祖母と話していた。問診で老人を相手にすることに慣れているためか話が上手く、初対面なのに車内の会話は弾んだ。最後列で美智子と並んで会話に混ざりつつ、優也は助手席の杏奈を時々見ていた。杏奈も話好きな方な筈なのに、話題を振られれば、話すことは話すが、今日は自分の方から膨らませるようなことがない。
「……へえ、その歳でそんなに読んでるのかい」
読書の話をされて俊彦が感心した顔で振り返ってきた。「僕も本を読みたいんだがねぇ、仕事をしているとなかなか難しくてね」
「おい、優っ。お前まさか、今日も本持ってきてんじゃねぇだろうなっ」
ミラー越しに智樹が声をかけてくると、
「持ってきてるよ」
と言って、運転席の智樹の肩をガクッと揺すらせた。
「おまえ……」
「いやいや、軽井沢で読書なんて、優也くんが一番正しい避暑地の過ごし方をしようとしてるんじゃないか? 少なくとも、地ビール、地酒、ワインが目当ての僕らみたいに不純じゃない」
俊彦が言って祖母を笑わせ、美智子を呆れさせた。
優也は本を持参したことを俊彦ではなく助手席の杏奈に言ったのだった。カバンの中に入っている本の名を聞かれたら、『ロウソクの科学』と皆に言ってやってもいいと思っていた。だが杏奈の後ろ姿は特にこちらを振り返りもせず、ずっと前方に続く車列を見つめていた。