僕をソノ気にさせる-25
「……ひどいよっ!」
俯くと涙が真下に落ちた。「だからって、後になって、こんなとこに連れてきて責めるなんて」
そう、楽しかった今日一日の最後を、こんな形で台無しにしてくれなくてよいのだ。さっきまで自分を笑わせたくせに突然。しかしそれは自分が招いた破滅だった。優也は遣瀬ない思いで、何とかして今日の朝まで時間が戻せないか切に願った。
「責めてないよ。……ちなみにさ、……私は今も怒ってないんだよ?」
「……」
その言葉に驚き、優也は充血した瞳を杏奈へ向けた。
「私が家庭教師のときに、怒ったりするじゃん? そんときと違うでしょ?」
「……、……うん」
恐れながら見た杏奈の表情には、確かに柔和さすら混じっている。
「でしょぉー?」
杏奈は美貌を綻ばせて、手を優也の頭に置いて柔らかく叩いた。
「……なんで怒らないの?」
「センセイが何でも知ってると思うな。数学みたいに理論で解明できないんだよ、きっと」
「自分のことなのに?」
「自分のことだから。なおさらかな」
「ウソだ。……そんなわけないよ」
ふー、と杏奈が息をつく。
杏奈が伸ばしていた脚を揃えて斜めに膝を折った。自然と体が優也のほうを向く。頭に置いていた手を優也の肩に下ろし、顔を近づけてくる。優也は大きな瞳にじっと見つめられて動けなかった。やがて杏奈の輪郭がボヤけ、瞳が閉じると、唇に映画館と同じ感触があった。
「――ね? そんなわけあるでしょ?」
一瞬の接触だったが、打ちひしがれていた全身が、触れた地点から一気に癒やされていった。
「うん……」
「説明しろ、なんて言わないでね」
確かに混乱すべき事態だった。杏奈は自分の家庭教師で、年上で、オトナの女性だ。しかも自分の従兄の恋人。その杏奈がキスしたことを怒っておらず、今、自分からもう一度キスをした。
やっぱり自分をからかっているのか?
だが優也は、そんなヒドいことをされているのでも構わないと思った。杏奈の言葉を借り、思ったのだから仕方がない、と惑乱を未然に治めた。たとえ、そうすることで、更にどんな惨い目に遇っても、美しい家庭教師と寄り添って座っていたかった。
「……あっ、点いた!」
いつの間にか辺りは薄闇に包まれていて、東京タワーがその赤みを誇るかのように空に浮かび上がった。「キレイでしょー?」
「うん……」
「タワー見なよ」
「先生のほうがいい」
「……なんだぁ? チューさせた途端に、そんなキザなセリフはよぉ……」
抱き寄せていた腕を解くかわりに、杏奈が優也との距離を更に詰めて座り直すと、お互いの腕が触れた。「……ハズいじゃん。ホメられると弱いんだ」
軽く体を揺らしてぶつけてくる杏奈の横顔が照れて少し緩んでいるのを嬉しく思い、暫く静かに一緒にタワーを眺めた。
「……あ、そだ! ……開けていい?」
やおら思い出した杏奈が、傍らに置いていた紙袋を膝に置いた。
「ここで?」
「……家まで我慢できません……」
顔を向けた杏奈が眉間を寄せて下唇を噛む。優也は何を選んだか思い出され、できることなら今からでも別の本に取り替えたいくらいに思っていた。だが杏奈の愛らしい表情を見ていると禁じることはできなかった。
「じゃぁ、僕も見るけど……、いい?」
「どぉぞ?」
杏奈から贈られた紙袋を解く。灯された街灯の明かりの中、ベージュの背表紙が馴染みの文庫本が現れた。だが表紙の色合いはいつも読んでいる文学系のものとは異なっていた。表題には『ロウソクの科学』と書いてある。
「……ファラデー……?」
「読書家の優くんに小説あげても、既に読んだヤツかもしれないからねー。それ、私が中学んとき読んで、それで理系に進もうって決めた歴史的な本なんだ。優くんの苦手な理科の本だけど、ファラデーさん、話上手だからスンナリ読めると思うよ」
「うん、ありがとう」
「どおいたしまして……。……と! いうわけで。なにかな、なにかなー」
杏奈が肩を揺らしてウキウキ感を伝えつつ、紙袋のリボンを解いていく。中から現れた白表紙の文庫本を明かりに向けて確認した。
「『肉体の悪魔』……?」
目を細めて優也を向き、「……コワいヤツ?」
「違うよ。恋愛小説だし……。でも、読まなくてもいいよ。面白くないかもしれないし」
どうしてラディゲにしてしまったんだろう。書店では、こんなことになるとは思っていなかったから、もどかしさや恨めしさ、狂おしさを抑えることができなかったのだ。
「コワくなくってよかったぁ……変わった題名だね。楽しみに読もう……、あっ! ねね、優くん、本持って本」
「え?」
「いいから。あ、待って待って、反対」
と、杏奈がベンチを逆向きに座り直して手招きをする。優也も杏奈に倣って座り直すと、杏奈は片手で本を持ったまま、もう一方の手でスマホを掲げた。