僕をソノ気にさせる-14
よくよく考えてみれば、杏奈はこれまで一度も、優也が知らない、わからないことを怒ったことがなかった。知ろうとする、わかろうとすることを拒否すると怒るのだ。布団の中でそのことに思い当たると、翌日優也は読書の時間を削って、杏奈が出そうとしていた宿題に取り組んだ。もしかしたら杏奈はもう家庭教師を辞めてしまうかもしれない。そんな心配に衝き動かされて、答えが合っているかはわからないが、次の杏奈の来訪日までに何とかやり遂げることができた。
果たして杏奈はやってきて、優也が心配していた最悪の事態は避けられた。だが玄関で祖母に挨拶している声、廊下を歩いてくる足音を、ドアから怒りに満ちた杏奈が現れ、この先ずっとあの燦爛とした笑顔を見せずに冷たい態度のまま指導を行うのではないかと恐れながら聞いていると、緊張で嘔吐感がこみ上げてくる。
「こんばんは〜。……お? 今日は本読んで待ってないんだ。何してんの?」
ドアから無邪気な杏奈が現れる。バッグを置いて椅子に座ったが、元気のない優也を見て、「どした? 体しんどいの?」
杏奈が顔を覗きこんでくると、優也の目から幾粒もの涙が一気に流れ出して、顎からポタポタと膝に置いている手に落ちた。
「ぎゃあっ、どーした。……えー、優也くん? どうしたの? お腹痛い?」
「……っ、……。く……、っ……」
咽び過ぎて優也の言っていることは杏奈にはわからなかった。
「どうしよ。お婆ちゃん、呼んでくるね」
いよいよ尋常じゃない事態に、本気で心配になった杏奈が立ち上がろうとすると、優也が激しくかぶりを振った。「んー、何? ダメなの?」
座り直した杏奈が優也の肩を落として丸くなった背中を摩する。
「どうしたー……? ん〜? 算数、イヤになったかなぁ?」
もう一度優也は首を振って、嗚咽に肩を跳ねさせて机の上に置いていたノートを指さした。
「これ?」
中をめくると出していた宿題は全てやり遂げられており、一瞥すると間違いが多かったが、片手間ではなく本気で取り組んだ跡が見られた。
「全部やってくれたんだ、これ」
「っ……、お、おこっ、ひっ……、できなっ……」
何とか話そうとするも、言葉にはならなかったが、最後に睫毛に溜まっていた涙をポトリと落とした優也が、「せん、せ、もぅっ……、こ、ない、と……、思って」
と言ったことだけ聞き取れた。
「うそぉ……」杏奈は立ち上がって、座ったまま項垂れる優也の頭を両手で巻き取ると、肩に額を押し付けさせて髪を何度も撫でた。「そっかそっか……。ごめんね。ごめんごめん」
「……ごめん、なさい」
言った後、腕の中で優也が悲痛な泣き声を漏らし始める。暫くの間、部屋の中でお互いに謝りあい、ずっと杏奈は優也を抱きかかえ続けていた。
翌朝、優也はバツの悪い思いに見舞われていた。前の日に歳甲斐もなく杏奈に頭を撫でられながら泣きじゃくったことを思い出すと確かにいたたまれぬ思いがする。だが優也を襲ったのはもっと物理的なところからくる困惑だった。
杏奈が夢に出てきた。これまでも何度か登場してきたことはあったが、昨日の杏奈は現実そのままに優也をずっと抱きしめ続けていた。祖母からする線香を主とする香りとは全く異なる、抱かれた中に香水による大人の若い女性の匂いに包まれて、頬や額に感じる思いのほか華奢な杏奈の感触は夢の中でも生々しかった。
起きてすぐに違和感を感じた。下着の中がヌルヌルしていて気持ち悪い。読んできた本の中でも描かれており、優也の年代の男子が見舞われる現象のことを知っていたから、瞬時に不快の原因に思い当たっていた。脱いで履き替えるが、汚れた下着をどうしたらいいか分からなかった。祖母の日課では朝一番に洗濯をするので湿ったままでは出せない。かといって優也の下着が無ければ不審に思うかもしれない。優也は新しい下着をタンスから取り出して、手の中で揉んでなるべく使用感を出してから洗濯カゴに入れた。問題の下着の方は、台所からこっそりと持ってきたスーパーマーケットのビニール袋に入れて硬く口を結び、とりあえず机の引き出しにしまっておいた。祖母が隙を見せれば洗面所で洗うつもりだった。
自分の体に現れた性徴を、保護者たる祖母に伝えるべきかどうか悩まれた。女の場合はお祝いをするというが、男の場合はどうするのか知らない。老女ではあるが女性の祖母への伝え方がうまく思いつかず、数日も言い出せないでいた。もちろん、杏奈には絶対に知られたくない。現象のそのものも恥ずかしいし、何より杏奈がこの現象を引き起こした張本人なのだから尚更だ。
現象は知っていたとはいえ、今後の対処の仕方は知らなかったので困り果てていたところへ、或る夕方、連絡もなく智樹が突然やってきた。
「婆ちゃん、メシ食わせてくんない?」