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実際の女性器を見て興奮する男性はかなりいるでしょう。でも「女性器」という言葉そのものに発情する人はめったにいないでしょう。
セックスを実際に体験したり、写真や映画でそれを眺めたりすること、と「セックス」という文字を読むことは、別のコミュニケーションツールが使われているからです。
この点に官能小説の特殊なコミュニケーションツールを使いこなすための困難さと、困難さにともなう可能性があるといえます。
すなわち、セックスに関係するその直接性を要求される点では、実際の体験はもとより写真、映画にも遠く及ばないものであり、直接的ではありえないからこそ官能小説が独自のツールであること。
これがセックスの代わりに読まれているとすれば、その代替性こそがこのジャンルの言葉の選択にかかわっているといえるでしょう。
たしかに、たとえば未経験な少年をたまたま勃起させることはありえなくはないでしょうが、官能小説にとってのセックスを体験して知っている男性、さらに女性が読者であれ発情させうることが栄誉であるともいえます。
書かれている情報だけで勝負に出る官能小説だけではなく、そこに何が書かれているかとそれがどのような言葉で書かれているかということが、読み手の気持ちをひきつけるところがポイントになります。
官能小説は愛撫や行為の場面だけで構成されているわけではもちろんなく、それは映画の構成ツールやマンガの構成ツールと同様にシナリオの構成技術が転用できるのはすぐわかると思います。
あえて話を単純にするために構成の話はここではしないでおきます。
「愛撫」という言葉と実際のそのしぐさはまったく似ていません。言葉は指し示すだけです。
彼は、梨香の言ったとおりに直径二センチほどの薄い桜色の乳輪の中心についた小さい干し葡萄のような乳首を、つくづくと眺めた。
唇をつけると梨香が「あぁん!」と小さくあえぎ声を洩らした。
例文はとりあえず今、書いてみたものですが、それ自身とはまったく別のものを示しているだけです。
演劇が芝居であることを受け入れなければ、映画も映像であることを受け入れて、想像しなければ言葉から現実の体験に近づくことはできません。
この錯覚の極限において「性器」という言葉が想像によって人体のその部分と等しくなるわけです。
「愛撫」と書かれた漢字二文字から上のような文章を想像するか、実際の体験を想像するかは詩のツールならば読者の感受性に丸投げするところですが、官能小説を書いてみるときに感じるのは、実際の体験でも、AVなどの映像を眺めることではなく、読書体験、つまり書かれたものをどれだけ読んで記憶しておくことの大切さです。
言葉の配置や漢字にするかひらがなにするかのニュアンスのちがいは、むしろ詩作品のニュアンスのほうが
参考になるでしょう。
漢字のほうが文字面のニュアンスは硬く、ひらがなはやわらかいのです。
狭義の分類ですと、ピヨピヨ、ピューといった言葉は擬声語、ひらひら、ふわふわ、などは擬態語になるわけですが、ここでは一括してオノマトペとします。
「あぁん!」も感情語・感嘆語も拡大解釈すればオノマトペと解釈できます。
官能小説の書き手たちはオノマトペを愛用します。それはなぜでしょう?
オノマトペは他の単語と比べて実際の音声に近いニュアンスがあるということになっているからです。
一人称の「女の告白」というスタイルを宇能鴻一郎が一貫してオノマトペを多用しつつ書くのは、近さの演出といえるでしょう。
書き手も無自覚な場合もありますが、はあはあ、ぐいぐい、ぴちゃぴちゃ、などのオノマトペは、声を出して読んでみるとわかりますが、反復的な音の、大半は同音反復の音のニュアンスは、性交におけるピストン運動のリズムも模倣しているのです。
この点に自覚的で、かつ巧みに使いこなしているのは団鬼六の作品です。
十坪ばかりの密室の中を埋めつくすばかりに立てこんだ野卑な男女の哄笑と嘲笑。
コップになみなみと注がれたビール。煙草の煙。むしゃむしゃと、スルメをかじる大きな口。むっとするような熱気が、この狭い室内にたちこめている。
これは団鬼六の『花と蛇』の引用です。「哄笑と嘲笑」も含め、そのシーンの前後にもオノマトペをさし入れています。
団鬼六の場合は正常な反復運動をする男女が書かれることはまれです。しかし、オノマトペを頻繁に使います。獰猛なヤクザの目と書くより、ギラギラとしたやくざの眼と書くのです。
なぜかというと、ストーリーとしてSMの倒錯を三人称で、さらに心理描写の(ああ、どうしたらいいの)といった登場人物の独白も少な目に控えつつ書きながら登場人物を物のように扱うSMプレイを用意しつつ、他のシーンでは正常な性愛のリズムをオノマトペで執拗に反復すること。
そのギャップがSMシーンの倒錯性を際立たせているのです。
さらに、登場人物の設定、ストーリーの推移、ヒロインの心理変化、セリフ、さらには「屈辱感」「羞恥の花芯」「快美感」「哀泣」など決まった語彙を数百におよぶ作品群でパターン化して徹底的に縛ります。
団鬼六パターンで作品を縛ること、SM小説としてこれ以上の擬態性を演出する作家はあまりいません。
マンガにおける手塚治虫パターンという手法があり、そのあとのマンガ家たちが作風を真似たのと同じようなことが官能小説の歴史でもあります。
宇野鴻一郎が採用したスタイルは「体験告白」ものに引き継がれ、団鬼六のパターンはSMものからレイプものに引き継がれました。
パターン化されたものは真似しやすかったからだと思われます。
一章に一度のセックスシーンを読者サービスとする構成パターンまで、何冊かこの二人の作家の官能小説を読むとパターンがわかります。
書こうと思ったらまずは読み、パターンや語彙を真似してみるのは良い練習になるでしょう。