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官能小説とは何か?
【エッセイ/詩 その他小説】

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「詩は言葉で作られる」

これはマラルメという詩人の言葉です。
官能小説なのに詩の話かよ、と思う人もいるとは思いますが、基本的な考え方という点で、共通することもあります。
どんなによい思いつきや感情があっても、また主張したいことがあっても、それだけでは詩作品は完成しない。詩作品は言語で作られるものである。
マラルメの「詩は言葉で作られる」という言葉は、このように解釈して考えることができる。
これが正解と意見を押しつけるわけではありません。
私たちは、とりあえず、このマラルメの言葉を出発点にして考えてみましょう。
「言葉で作られる」
という点では官能小説と詩も言語を使って作られるテキストです。
これは当たり前だろうと思われるかもしれませんが、必ずしも当たり前ではないのです。
感動的な事件についてふれられていれば、もしくはその当事者の書いたものであるので、作品の内容ではなく発表する行為そのもの感動的であるという例もあります。
素材、題材、作者の話題性とセットで価値が付与される作品がしばしばあります。
「詩は言葉で作られる」という命題は、別の解釈へもつながっています。
言葉の上だけのもの、実際とはかかわりのないもの、素材の言葉を組み合わせて楽しめばいいのだ、という解釈もあり得るわけです。
これは批評ではないので、その例をここでは細かく上げません。
作者の死後、まるで申し合わせたかのようにその作家の作品がリバイバル出版されることで、絶版になっていた作品が新たなに読む人が増えるというのは前者で評論を発表しその作家のイメージを作り上げるのは後者であると思われます。
このサイトは実際に官能小説を書いてみたいという人も多いと思うので、作品が完成して発表したあと作家の死後に評価されること以前の書くことについて話をします。
官能小説の書き方についての教科書を書くつもりもないし、それは困難な上に教科書の方法を順守されても読者としては退屈な作品ができあがるだけでしょう。
ここでは書くことでわかることを確認していくことになります。本当はできることは、実際に書いてみることしかありません。
なぜ官能小説についての話をして、詩ではないかというと、まず速度の問題があります。
速度とはメディアを通じて読者に読まれるまでの速度のことです。
官能小説を書いて作家になり作品を発表したいと考えた場合と詩人となって作品を発表したいと考えた場合のちがいはわかりますか?
詩人という人はかなりいらっしゃると思います。
同人誌や自費出版で詩作品を発表された方は詩人なわけです。
消費されて消えていく速度に乗せなければ届かない遠い場所にいる読者と、一番初めの読者がいます。
詩人がめざすのは消費されて消えていく作品ではなく消えていきにくい保存食のような作品を目指します。
映画、マンガ、小説、詩と比べるのは媒体が異なるので正しい例ではありませんが、速度を考えた時には最速は現在、映画かマンガです。
遠くの読者に届けるためのメディアがある。
残念ながら詩には歌詞やキャッチコピーとして消費されるメディア媒体はありますが、詩作品そのものが流通するメディアが少ないのが現状です。
官能小説の場合はマンガほどではありませんが、流通するメディアが詩や純文学に比べてあり、遠くに届く可能性があります。
消費されることを前提条件として、官能小説は書かれます。
それが官能小説と詩の違いです。
一番初めの読者とは誰かというと、それは作者ということになります。
まず、書き上げることが大切なことなのは、遠くの読者に届けるためには、一番初めの読者に届けなければならないわけです。
完成した作品は必ず読者に消費されます。

話をさらに単純にします。
「私はXに行きます」
とメモに書かれていたとしましょう。
誰が読んでも、読める字で書かれていればその人がXに行くという意味が伝わります。
伝わったところでその伝言のメモとしての言葉は消費されて役割を終えます。
一番初めの読者から身近な読者へ、伝言メモというメディアを介在して消費されたわけです。
ところが、この文の語順を並べかえてしまうと、すんなり伝わらず「読みにくさ」が発生します。
「行きます、私は、Xへ」
「行きます、Xへ、私は」
そのニュアンスの違いによる読み手の「読みにくさ」とは文に「入り込んでいけない」ということでもあります。
同じ情報として、その人がXへ行くと伝わって消費されます。
また「私は」を「私が」に書きかえてみましょう。
するとニュアンスはまた少しちがってきます。
「行きます、私が、Xへ」
他の人ではなく自分がどうしてもXに行くのだ、と感情が伝わってくるのではないでしょうか。
「私」を「俺」「あたし」「僕」に変換すると伝達内容は変わらないのに、文のニュアンスはまた変わってきます。
もちろん消費する読者の感受性によって、並べかえても「私は」を「私が」に変えてもニュアンスがわからない人、もしくは情報を読みニュアンスを読まない人もいますから、それは絶対的ではないのですが、一番初めの読者の検閲を受けるわけです。
「Xへ」
だけ書いてあるメモでも感受性の鋭い、もしくは慣れている相手への伝言なら、Xへ行ったんだなと見当がつくかもしれません。
文が伝わるためには共通のコミュミケーションの基板
が成り立っていなければならないといえるでしょう。
官能小説を含む散文の場合、論理的な意味の領域が相対的に大きく、詩の場合は非理論的なニュアンスの領域の幅が大きいのです。

官能小説があって官能詩というジャンルが確立されないのは、コミュニケーションツールがあるか無いかのちがいともいえます。



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