音楽―前編―-9
消えてしまう。
「…僕にはいつも…時間がないんだな…。」
「隼人…。」
「もう大丈夫。ありがとう、シン。時間がないのなら急がなきゃ。」
支えるシンの手から離れ、隼人は持ちなおした。不安そうなシンにほほ笑み、もう一度大丈夫と肩をたたく。
「由香。」
隼人は由香に近付き始めた。相変わらず彼女の目には遠い記憶しか映っていない。
屋上に降りたった隼人に由香が気付く事はない。不自然に動いている手紙にさえ気付かなかった。
由香の目の前に隼人は立った。しゃがんで目線を合わせても由香には気付かない。
久しぶりに見た彼女は心なしか痩せていたが、やっぱり綺麗だった。
流れ落ちる涙を拭っても隼人の手はすりぬける。何度やっても何度やっても、隼人の手はすりぬける。
どうしようもない気持ちが押し寄せてくる。隼人は自分の手を見つめ握りしめた。
「もう…きみに触れることもできない…。」
悔しさで涙がでそうになる。どれだけ手を伸ばしても触れることはできない。どれだけ声を張り上げても決して聞こえはしない。
「由香…っ!」
絞りだすように隼人は叫んだ。由香の目は隼人を見ない。
切なさで胸がいっぱいになる。由香の目に色はない。隼人はもう一度愛しい頬に手を伸ばし軽く触れてみる。
感覚はない、でも本物の由香だった。由香の手元に手紙を置く。それでも彼女は意識を手元には運ばなかった。
「隼人、任せろ。」
シンは二人に近付き、由香の目の前で指をならした。小さな火花が咲き、由香の意識が戻る。
遠い思い出から引き戻された由香は、目をきょろきょろさせてとまどっていた。ある程度頭の中を整理すると、納得したように体の力を抜いた。ふと手元に目をやる。
「…手紙?」
封筒を裏向けても差出人の名前はなかった。一応あたりを見回してみる。当たり前のように人影はない。
由香は少しの間、差出人の名前がない封筒と見つめあう。やがてゆっくりと封を開き、中身をだす。
丁寧に広げた手紙を見て由香は思わず手で口を覆った。そしてもう一度辺りを見回す。何ひとつ見逃さないように、何度も何度も姿を探した。
この見覚えのある綺麗な字。今はもういない最愛の人のものだった。
確かに目の前にいる。でも由香には隼人の姿は見えない。いくら探しても隼人はいない。由香はもう一度手紙に目をやった。
『由香へ』
文頭には間違いなく自分宛と明記されていた。彼の文字で、書かれていた。