お満に忍びよる影-3
声を掛けてきた男は、さっきの芝居に出ていた若い役者だった。その役者は着替える事もなく芝居衣装を着たままの姿でお満に駆け寄ってきた。
「『そこの人』って、あたしの事?」
自分の事を指差したお満に、若い役者は頷いた。
「ふう、ようやく追いついたぜ。おめえさん、さっき芝居を見てらした方ですよね。いえいえ、そのいなせな格好、見間違えるはずありやせんや。それにその掛け声が何よりの証拠さね」
男装をした若い女は目立つ。そう思っていた役者は直ぐに追いつくと高を括っていた。しかし、いざ芝居小屋を出てみるとお満の姿は既に無かった。
勘を頼りにアチコチ走り回り、ようやく神社の手前でお満の独特の「カッシーWAYAYA!」の掛け声が聞けたのだった。安堵を覚えた役者は一気に捲し立てた。
「え、ええ、お芝居見てました…。あたし、何か悪い事でもしたんじゃ…」
よく響く声の役者の勢いに押され気味のお満は、少したじろぎながら答えた。
「いえいえ、滅相もございませんや。実は六代目の声掛けなんです。六代目からお譲さんを楽屋にお招きするように言いつかりまして、ちょっくらお時間を頂戴できませんかね?」
「えっ!六代目って、さっき芝居に出てたあの六代目?で、でも、どうして?やっぱり叱られるの?」
何かの騒ぎが有れば、昔からそれは自分が何かをしでかした時に限っていた。その度にお敏に叱られていたお満は心配した。
「可愛いお譲さんを叱るもんですかい?お譲さんの掛け声に六代目が気をよくしてましたから、そのお礼をしたいみたいですぜ」
「えー!嘘みたい。行きます行きます」
芝居の内容はさっぱりわからなかったが、初めて見た芝居の華やかさに感銘を受けていた。その人気の役者に声を掛けられた幸運に、お満は素直に喜んだ。
ウキウキしたお満は役者に案内されるままに神社を出た。呆気に取られていた挙動不審な男は慌てて2人の後を追った。
危難を免れた事も知らずに、お満は嬉しさの余りに、例の掛け声を口にしながら通りを歩いた。
「よっ!柏屋!よ〜、かしわや〜、かっ、しっ、わっ、やっ!カッシーWAYAYA!SAPPAWAYAYA!」
その洗練された鮮やかな掛け声に、若い役者はあらためて感銘を受けた。そして自分もその境地に少しでも近づこうと思い、お満の掛け声に和しだした。
「よっ!柏屋!よ〜、かしわや〜、かっ、しっ、わっ、やっ!カッシーWAYAYA!SAPPAWAYAYA!」
「よっ!柏屋!よ〜、かしわや〜、かっ、しっ、わっ、やっ!カッシーWAYAYA!SAPPAWAYAYA!」
掛け声が一段落した時に、役者がお満に尋ねた。
「ところでお譲さん、その成りにはいってえどんな謂われが有るんです?」
「成りって、この稽古着の事?」
そう言った瞬間、お満は自分の立場を思い出した。
「いっけな〜い。お稽古の途中だった」
「へっ?お稽古…」
「ごめんなさい。お稽古の途中だから戻らないといけないの」
「そ、そうですかい、ならば六代目にそう伝えますが、都合のいい刻限にいつでも楽屋を訪ねて下せいませね」
若い演者は残念そうに伝えた。
「はい、必ず行きますね」
お満は役者にぺこりと頭を下げると、道場に向かって歩きだした。
(確か、稽古の時は走ったらいけなかったはずよね)
お満は書付の内容を確認するために、懐の中をごそごそと探りながら役者から離れていった。その超然とした後姿を見送りながら、役者は感慨深げにつぶやいた。
「う〜む、稽古の途中に芝居見物たあ、若いのにすっげー肝っ玉だ。それに急ぐ風でもねえあの貫禄。あの肝がねえとあの掛け声は出せねえぜ」
何処に落としたのか、見つからない書付を諦め、お満はお気に入りの掛け声を口にした。
「よっ!柏屋!よ〜、かしわや〜、かっ、しっ、わっ、やっ!カッシーWAYAYA!SAPPAWAYAYA!」
その軽やかなれど心に響く韻を、役者は頭を垂れて耳に染み込ませた。
あくる日の読売にはこう書かれていた。
【六代目、新たな演目で新境地。それを支えたのが 謎の美女の美声かしわやや】
謎の男装美女の噂が、しばらく江戸町に続いた。
お満が1人になったので、挙動不審の男は再びお満の後を追ったが、お満に手を出す事は出来なかった。人通りが少なくなったとは言え、まだまだ人影は途切れなかった。ましてや楽しげな掛け声を発するお満は注目の的で、コッソリと拐かす事は出来なかったのだ。
それでも、お満が道場に入るのを確かめると、男は満足気に頷き、そのまま江戸町の宵闇に紛れてどこかに消えた。