SEXUAL NIGHT-1
『好きだよ』―――ほんの数時間前の事がもう百年も前の事のよう。
夜の街は官能的だ。この扉を開けるたびにそう思う。薄っぺらな白熱灯の光。もう五月になろうというのに、夜気は肌寒さが拭いきれない。お気に入りのユニクロの黒のボーダーを羽織ると、たちまち私まで夜になったような気がしてくる。ぬらぬらとした感覚。もう視界に映るこの色素の薄いセミ・ロングさえ、私なのかわからなくなってくる。
特に気に入りなのはここだ。吉野家を通り過ぎて、ラブ・ホテルの裏側から表通りにまたがるマクドナルドの脇を抜けると、急に視界が開けてくるここ。怪しげなお兄さんの勧誘をソデにしながら、わざわざこのピンクな通りを通って帰るのだ。こんな気分の時は特に。
やはり季節柄か、雑踏を取り巻く空気は少しあたたかい。そっと静かに、だも確かに私の佇まいを受け入れてくれる。隣のサラリーマン二人組みのお酒臭さも、後ろから追いかけてくる女子高生の笑い声も―――夜のこの街で響く彼女らの声の慎ましさ!―――すれ違うカップルの微笑みも。
私はこのまま溶けてしまいたいとおもう。溶けてこのまま夜気とひとつになって、ただ魂だけの存在になって消えてしまいたいと。それは死にたいのとは違う。私でなくなりたいのと、私が死にたいのとは全然別のことだ。私はただ、だれでもなくなりたい。
『好きだ』
私は信号の合図で足を踏み出す。夜風が私をさらって行きやすいように、無駄のない動きで。
『綺麗な足首だね』
ああ、肉体ってなんて邪魔なんだろう。誰か持っていってくれればいいのに。家になんて帰りたくない。私はまるで小さな子供みたいにそう思う。
『白いおなかだ。僕の大好きな』
足のふとももが千切れそうなくらい大きな足どりで歩く。びゅんびゅんと速度を上げる人の群れをするりと通りぬける。先読みゲームという、私の作ったお気に入りの遊びだ。あのお爺さんはきっと左に曲がる。背の高いパンクガイは右。それを抜けたら子連れの奥さんの横を通っていこう。このひとり遊びには、とても注意深いことと、集中することが必要なのだ。全身を足にする。クリア出来たときの達成感が私を陶酔させる。私はこんなに軽やかに動けて、自由で、身軽だ、と、思えるこのひとり遊び。
『キスして、××』
乱暴に抱えていたショルダーバックからリップクリームが落ちて割れた。パキン、というそのかそけき悲鳴は、雑踏に紛れてわからなくなった。
『ねぇ、××、もう時間だ』
足が痛い。ヒールを履いていたことを忘れていた。
『今日はありがとう』
私はひとりだった。そして、これからもずっとひとりでやっていくと決めた。ばかばかしいことに囚われたりしない。身軽さだけが私のもっとも愛することで、だから私はこんなにも寂しい。
『これからも仲良くしような、親友。』
どうして私は消えてしまわないだろう?家の灯りが見えてきて、私の身体はじっとり汗をかいていた。ボーダーの下ではりつくシャツがべとべとと気持ちわるい。
「ただいま」
返事は、無い。