ずぶ濡れのキス-1
職員室のドアが乱暴に開けられた。中にいた教師たちは一斉に振り向いた。
「鷲尾先生!」将太は叫んだ。
教頭が転がるようにやって来て将太の前に立った。「何だ、志賀、今、授業中だろ」
「鷲尾先生は?」
将太は教頭の肩越しに、彩友美の机に目をやった。
「教室に戻れ」教頭は強い口調で言った。
将太はきびすを返して駆け出した。
「こらっ! 廊下を走るんじゃない!」
将太は息を切らして音楽室のドアに手を掛けた。ドアには鍵が掛かっていた。
彼は激しくドアをノックした。「先生! 鷲尾先生!」
音楽室の隣の美術室から年配の女教師が顔を覗かせた。「何の騒ぎ? あら、志賀君、授業は?」
将太は振り向き、その教師に向かって叫んだ。「わ、鷲尾先生はどこですか?」
「彼女は、もう帰られたみたいよ」
「えっ?!」
「具合が悪そうだったから……」
将太は教師に迫った。「彩友美先生の家、どこですかっ?」
「え? な、なに? いきなり」
「どこですか? 俺、見舞いに行きますっ!」
苦笑しながらその教師は言った。「感心ね。でも授業、」
「そんなこと、どうでもいい! 教えて下さい!」将太は大声で怒鳴った。
彼女はたじたじとなりながら口を開いた。「き、北中の裏手の『コーポ デイジー』よ。だけど志賀く……」
将太は美術教師がその言葉を全部発し終わる前に、再び身体を反転させて廊下を何度も躓きかけながら駆けていった。
冷たい雨がざあざあと降っていた。
将太は自転車に跨がり、正門を出て通りを鈴掛北中学校のある方角に向けてそれを走らせた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、彩友美先生……」
将太はそうつぶやき続けながらペダルを踏みしめた。
彼は中学校の周りの道路をぐるぐると回った。いつしか全身びしょ濡れになっていた。
将太はようやくその小さなアパートの看板を遠くに発見した。黄色い傘が二階に上がる階段の前で閉じられるのを見た将太は、全速力で自転車を飛ばし、その建物の前で急ブレーキを掛けた。
「先生! 彩友美先生っ!」
レインコートを脱いだ細身の女性が二階通路の手すりから身を乗り出して下を見た。
「しょ、将太君!」
将太は自転車をそこに放り出して、二階に通じる螺旋階段を二段飛ばしで駆け上がった。
「将太君!」彩友美は目を見開いて口を押さえた。
将太は彩友美の前に来るなり、床に手をついて、額をその手の甲に擦りつけた。「ごめんなさい! ごめんなさい、先生!」
灰色のコンクリートの床に将太の身体の形の水たまりができた。
「将太君! ずぶ濡れじゃない。入って、早く部屋に」
彩友美は将太の手を取って立たせた。
突然、彩友美の身体は将太に抱きすくめられた。そして、唇が将太の唇に押さえ込まれた。
「んんんっ!」彩友美は小さく呻いた。
将太はいつまでも口を離さなかった。それはキスと言うより、ただ固く閉じた唇を押し当てているだけだったが、彩友美の動悸は速くなり、身体もぐんぐんと熱を帯びていった。
将太の濡れ鼠のような前髪から滴る冷たい雫に混じって、温かいものも彩友美の頬にあたり幾筋も流れ落ちた。