4.無知の罪、知の虚空-3
「……!」
死ね、と言いそうになった。
逆上してはならない。どうせ相手は女とまともに付き合ったこともない男、と何とか自分に言い聞かせ、顔を振り向けサングラスの下で冷ややかな哀れみの目線を作って、
「ま、あんたなんてどうせ大したことないんでしょうし? 全然平気だから、とっとと終わらせたいだけ。……ただ、あんたが写真をちゃんと渡してくれる、って信用ができないんだけど?」
「は、悠花ちゃんが条件を守ってくれたら、絶対に渡すよ。も、も、もちろん、悠花ちゃんが最後までちゃんと守ったら、の話だけどね、……あはっ」
「その笑い方するのやめてくれない? いちいちその『あは』っていうのが超キモいんだけど?」
男のニヤケ顔が勘に触る。サングラスの越しに睨みつけてやると、更に男は蕩けたような顔に崩れる。悠花がイラついている姿がむしろ嬉しいかのような態度が余計にプライドを刺激してきた。このままでは我を失って、大声を上げてしまいそうだ。この衆人環境の中で、周囲に自分の存在を気づかれて不利になるのはこちらの方である。
再来週の写真集発売後に予定されている、各書店での握手会イベントの打ち合わせ。そこで出版社の担当女性の言った言葉――『心を無にして……』。
悠花はサングラスに隠し、ゆっくりとした瞬きをして、その言葉を頭の中で反芻した。
キモいオタク男、かつ卑劣な脅迫者を前に、決して項垂れず、逆上もしないクールな女を演じるのだ。
「こ、この笑い方は、俺の素だからさ、そ、そこはカ、カンベンしてよぉ」
気色悪いのは笑い方だけではない、話し方じたいもそうだし、見た目も好感など一つも感じる所が無い。
「……」ふぅ、と相手に嫌悪感が伝わるように大きくため息をついてみせ、「で? これからどうするの? 私、忙しいし、こんなムダ話してたくないんだけど」
村本の鼓動は高鳴り過ぎて痛いくらいだった。このまま心臓がショックで停止してしまうのではないか、そう思えるほど、生の悠花に会うことができた衝撃は大きかった。
「と、と、ということは……。……つ、つ、つまり……」
喉の奥で唾液が絡みついて霞れる。
「何よ」
「つ、つまり、……俺の出した条件、オ、OKしてくれる、ってこと、でいいんだよね?」
「はぁ? 何言ってるの」
「っていうかさ、メ、メールと、で、電話で色々お話して、きょ、今日こ、こ、こうして会っているわけ、でしょ? は、悠花ちゃんも『そのつもり』で来てくれてる、って思ってもいいんだよね?」
わざわざそんなことを確認してくる、粘着質なところも堪らない。
「そういうことなんじゃない?」
「ちゃ、ちゃんと、は、は、ハッキリさせておきたいんだ。あ、後になって訴えられても困るからねぇ……、ふふっ」
悠花は、もう一度大きなため息をつき、
「あんたが約束守ってくれるならね」
と、顔を向けず、完全に逸方を向いたまま答えた。
「約束守るなら、……い、いいの?」
「は? さっきから何が言いたいの? うっざいなぁ……」
するとまた、村本は声を顰めて悠花に言い聞かせるように、
「せ、瀬尾悠花ちゃんの、そ、その体を、思う存分、好きなように……」
悍ましい言葉を声に出して伝えてくる。悠花はその言葉を最後まで聞くことなく、
「ホントあったまおかしいし、あったま悪いんだね。言ったでしょ? 私の名前呼ばないでって」
と、発言を折ってやる。
「ちゃ、ちゃんと認めて欲しいんだ。は、悠花ちゃんにね。きょ、今日会った目的を……、ちゃ、ちゃんと明言してくれないと、ね。そ、それとも……、い、言えないなら、ど、どうなるか、知ってるでしょ?」
村本の方を振り返り、眉の間をひそませた。サングラスで目元が隠れていても、睨んでいることは分かったはずだ。
「――言わなかったら?」
「こ、交渉決裂、ってことで、あ、あの写真が、……ね?」
「最低」
またも村本が言い切る前に、悠花は言い放っていた。