4.無知の罪、知の虚空-2
「い、いや、お、俺も頼んだからさ」
男はカップを捧げるように悠花に見せた。
「そんなの外でも飲めるし」
「まあ、いいじゃん。少しお話しなきゃ、でしょ? ……今日、これからのことをね」
そう言って、ウインクしてみせる。
それを見て唇の動きだけで声にはならず「キモ……」と呟き、頬杖をついたまま視線を逸らした。
悠花の視線が逸れたチャンスに、村本は改めてすぐ傍に座る美人モデルを眺めた。サングラスの太めのフレームが邪魔だが、横顔から少しだけ、あの涼し気な瞳と長い睫毛が垣間見える。麗しい頬の肌にコントラストとなるように、官能的な唇がカウンター席の照明に艷やかに照っている。
そして座っている姿でも、8等身というキャッチフレーズが決して誇張ではない肢体が十分把握できた。視覚だけでなく、憧れて止まなかったその声を直接聞く聴覚、そしてすぐ近くに座ったことで鼻先に薫ってくる香水に嗅覚まで刺激されて、ウットリとなった。
一方の悠花は、少しでも持っていた希望を粉々にした男を、直視する気になれなかった。ヨレ皺がついた太めのチノパンの中に、チェック地のシャツの裾を入れ、緩んだ腹を隠そうとしているのか、ベルトをキツめに絞っているせいで余計に膨れて見える。その上からフォルム調整をしていないジャケットを羽織って、セカンドバッグを携えている。そんな服装でありながら、靴は白の薄汚れたスニーカー。何より我慢ならないのは、シャネルの大きなエンブレムがサイドについたメガネをしていることだ。
よくもそのファッションセンスで、自分に声をかけてくる気になれるものだ、とすら思った。視線を手元へ巡らせると、セカンドバッグのファスナーの所に、小さいながらアニメキャラクターのキーホルダーがつけてある。
こんな奴に「男と女」として会いに来たかと思うと悲鳴を上げたくなった。
「そ、そ、それにしても嬉しいよぉ。……こうやって、悠花ちゃんと……、ナマの瀬尾悠花ちゃんと会えるなんて」
じっと見つめているだけの勇気もないのか、視線を前方に移し、それでもチラチラと横目で窺ってくる。
「そぉ? サインでもあげよっか? ……っていうか、私の名前、声に出して呼ぶのやめてくれる? 人に聞かれるの嫌だし、何てったて、キモいから」
上野に着くまでの電車の中で、演技の役作りを行っていた。多少嫌な女に見えたってかまわない。卑劣な脅迫相手にへりくだるような態度だけはしたくない。
「……あはっ。まあ、サインはともかく……、さ、さすが悠花ちゃん、き、今日のスタイルも決まってるねぇ。そんだけキレイだと、周りのめ、目も、ど、どうしても引いちゃうから仕方ないよ」
村本は電話口ではあれだけ落ち着いて交渉ができたのに、やはり直接悠花を会うと、喜びと緊張に、吃りが止まらなかった。
「あんたになんかホメられても、何にも嬉しくないんだけど」
「さ、さすが、自信があるんだねぇ。ま、は、悠花ちゃんクラスともなれば、どんな服もカッコよく、き、着こなせちゃうだろうし」
「えっと」
顔は完全に村本と逆の方に向けていた。「いつまでこんなつまんない話してるの?」
事実、この会話には何の意味もないし、早く状況を進展させたい。
「……あはっ、せ、せ、積極的だねぇ」
村本は少し身をかがめ、声を顰めた。「そんなにお、お、俺と早く、ふ、ふたりきり、になって、お、思う存分、じ、じ、自由にされたいのぉ?」