3.滑落-9
昔、交渉部屋で梨乃に言われたことが思い出された。
『あとコイツ、マジキモ男のくせに偉そうだからさ、ちょっと上からいかないと調子こくから』
(どうせ女にモテないキモ男だ)
確かにあの男は、どんどん増長していった。下手に出てはいけない。あの時のように、素っ気なく、冷淡に、年上相手に生意気とも取れるような態度を保つべきだ。
悠花は息を大きく吸い、なるべくゆっくりと吐き出すと、メールに付された電話番号のリンクを押した。画面が切り替わり、自動的に発信が行われる。向こうだって、脅迫行為が犯罪だということくらいわかるだろう。いくら常識外れの男だって警察に捕まるのは嫌なはずだ。悠花は鼓動を抑えながら、スピーカーからの微かな発呼音を聞き、受話器のアイコンから伸びる線の点滅を眺めていた。
――村本は鼓動が高鳴り過ぎて、心臓に痛みを感じていた。呼び出し音に驚いたわけではない。いくら綿密に計画を立てても、思惑通り順調に進んでいても、いざ瀬尾悠花と直接電話する段になったら緊張して当然だった。スマホの画面に映っている番号、その向こうに悠花が、しかも今この時、同じ時間を過ごしているリアルの悠花がいるのだ。
指の震えのために、スマホを握っていないほうの手の指で、確実に応答バーをスライドさせ耳に当てる。
「もしもし――」
しばらく何の声も聞こえてこなかったが、こちらが何も言わなかったことに焦れたのか、向こうから無愛想な、しかし美しい声が聞こえてきた。ファッションモデルであるから、メディア上で声を聴ける機会は少ない。だが、グラビアの宣伝で出演していた番組で発した、昔から大人っぽいルックスに対して少しギャップがある、可愛らしい声質だが幾分鼻にかかった感じがセクシーさを加味している、あの声が、確かに受話器の向こうから聞こえてきた。
「……ふっ、しゅ……」
悠花の耳元には、荒い息遣いの風音しか聞こえてこなかった。
村本はこの電話を、部屋の中で白いブリーフ一枚姿で待っていた。下着はこのタイプしか持っていない。彼女がいない以上、誰の前で脱ぐわけでもないから、下着にセンスを持つ必要はなかったし、何といっても値段が安い。その白ブリーフの前面は、腰骨の辺りまでシミを広げて勃起しっぱなしだった。亀頭の先を覆っている生地の頂点には、さ黄ばみも広がっている。ずっと自慰を控えているところに、悠花の生声を聞いたらどうなるか分からない。待っている時から透明な粘液の噴出が止まらなかった。メールでやり取りしていたときでさえジーンズの前を思い切り汚してしまった。あまり数を持っていないズボンを無碍に汚すのを避けるために、ブリーフ一丁姿でいたのだったが、その選択は正解だった。
悠花の耳元には、ずっと吐息音しか聞こえなかった。また無言の間が空く。悠花の脳裏に、カラオケボックスのソファーに座る、汚らしい肉塊のようなあの男の姿が鮮明に思い出されていた。
「――あの、もしもし……?」
自分の素性がわかるまで、警戒しているのかもしれない。「瀬尾……ですけど」
ふしゅーっ、更に大きな風音が聞こえて顔をしかめる。
(何なのコイツ……)
「あの……」
「も、もしも、し……」
「えっ!?」
「んな、な……、何だい?」
思わず声を上げていた。今度はお互い驚き合ったための間が空いた。
(……アイツじゃない)
たった一度会っただけだったが、あの時の男の寒気のするような声は憶えていた。いま電話口から聞こえてきた男の声は、やはりまとわりつくような不快感はあったが、声質が全く違う。
「誰よ、あ、あな……」
梨乃の言葉を思い出して、気を取り直し、「誰よ、あんた」
「だ、だ、誰って……、メ、メールに書いてあったと、とおりだよ。は、悠花ちゃ、ちゃんの、大ファンのお、男さ」