3.滑落-8
『いまむり。あとにして』
バゼットはおしゃべりをしながら、長くディナーを楽しむのが好きだった。悠花もいつもならバゼットと色々な会話をして、笑い、そしてたまに惚れ直しながら食事を楽しんできたのだが、
『もう、19時だよ?
どうする?
万が一のことを考えて、
準備をしているよ』
『まだ、もうすこし』
食事中でもお構いなしにメールが舞い込む。頻繁に来着するメールにいちいち応対しているのをバゼットに知られると、怪訝に思われるかもしれなかったから、バゼットと話しながらテーブルの下でメールを返していた。
万が一の場合の準備。相変わらず明確には記載してこないその表現に、色々な想像をしてしまって焦りが生じた。バゼットが目線を外すタイミングでしか入力できないので苦心する。
『さぁ、20時になったよ。
そろそろ。
結論を出さなきゃいけないんじゃない?』
『やめていまは。とりこみ中なの』
――村本は悠花の返信の文面に、例のハーフ系モデルとデート中であることを察知していた。平仮名の多さは、相手に知られないようにコソコソと返信している様子を伝えてくる。
(ここは「攻め」だな)
村本とのやり取りにだけ集中できない状況は、追い込むにはうってつけだ。ある程度の時間になったらアルコール主体の店に移動するだろう。そのタイミングなら、彼氏から引き離し易い筈だ。
『目の前の彼氏にかまけている場合じゃないよ?
デートは尊重してあげたいけど、
今日はもっと大事な用事があるよね?
どっちを優先するべきか、
ちゃんと考えたほうがいいよ?
悠花ちゃんが、
俺の「お願い」をOKしてくれるかどうか。
23時までに結論が出なければ、
あの写真は、
たくさんの人の目に触れることになる。
いつでもネットに公開できる準備はできているよ。
いちいちメールでやりとりするのもじれったいね。
一度直接話したほうがいいんじゃない?
連絡先は、080……』
――悠花は最初の文章でドキリとして辺りを見回した。どこかから見ているのではないか。しかし周囲には怪しい人物を見つけることができなかった。バゼットにもらったカルティエの時計を見ると、相手の言う23時にはもう2時間もなかった。
携帯番号が付されている。しかし今は応対を考えている余裕はない。とにかくメールに集中するためにこの場をキャンセルする方が先決だった。理由を頭の中にさまざま巡らせ、おずおずとバゼットに架空の仕事の打ち合わせ話を申し出た。
「なんだ。それで今日はちょっと浮かない感じだったんだ。いいかい? そういうことは早く言うんだ。そんなことで俺に気を使っちゃだめだ」
きっぱりとした口調だが、表情には慈愛がこもっていた。
レストランから悠花の自宅に着くまで、小一時間くらいかかった。車の中で悠花は言葉少なく憂えげな表情だった。バゼットの目には、デートをキャンセルしたことを申し訳なく思っているように見えただろう。実際は嘘をついてしまったことに対する自己嫌悪と、家路を急ぎたい焦りからくるものだ。バゼットと別れ、やっと部屋の中に座り込んで一息ついたときには、悠花の部屋の時計は22時を大きくすぎていた。
(どうしよう)
フリーメールから個人携帯のメール、そして個人携帯電話へ。相手の手に渡る悠花の個人情報がエスカレートしている。今日のメール攻撃は、昨日とは打って変わって迫り来るものがあった。