(第三章)-8
「ぼくが生まれる少し前の写真だと思います。父は大学院に在籍していた頃、指導教授の娘で
ある女性との結婚を勧められました。そしてぼくが生まれた。ぼくがふたりのどんな性的行為
のなかで生まれたのか…この写真から想像できることかと思います。そして、母は重い病気を
患い、長く病床に伏した後、亡くなりました。父があなたと出会う以前の話です…。父が母を
どれほど愛していたのか、ぼくにはわかりません。ただ、あの頃、鞭を手にしていた父は、母
が亡くなった後、あなたの前に跪き、あなたの鞭を欲しがったという事実があるだけです…」
ふたりのあいだにゆるやかな沈黙が漂う。死んだノガミの姿が茫漠と脳裏にひろがり。胸の中
の微かな動悸が何かに押しつぶされたように萎んでいく。
空港のアナウンスが、タツヤが乗るロンドン行の飛行機の搭乗案内を伝える。私とタツヤは、
お互い無言のまま喫茶店を出た。
「ぼくはずっとあなたに告げることを躊躇っていました。ぼくは父がつき合っていたあなたと
いう女性をずっと意識していました。そして、あなたと出会い、あなたとプレイを行ったとき
から、ぼくの中に眩しく芽生えたものを確かに感じました。ぼくはそれをあなたと分かち合い
たいのです…」
タツヤはそう言いながら、私の肩を軽く抱きよせると頬に軽くキスをした。
「東京には一年後に戻ります。そのときは、ぼくともう一度つきあっていただけませんか…」
彼はそう言い残すと出発ゲートの雑踏の中に消えていった。
三月になったというのに季節はずれの微かな雪が舞う夜空に、タツヤを乗せた飛行機が小さな
光の明滅を繰り返しながら吸い込まれていく。音もなく舞い落ちてくるなごり雪は、いつのま
にかあの頃、ノガミとふたりで見た冬桜の花びらへと変容していく。
舞い落ちる雪がゆっくりと溶けていくように、冬桜の花びらが私の瞳のなかを静かに潤ませて
いく。そのとき、すでに私の中で風化を続けていた物語の終わりが、私の新たな始まりでもあ
ることをふと感じた…。