第八話 最終回 想いの届く夜-4
4.
時は流れて、忘年 某月 某日のある夜。
ところは、アルゼンチン国の首都、ブエノスアイレスの中心街から少し外れたリオバンバ通りの由緒あるミロンガ(タンゴのダンスホール)“エル ベッソ”。
国内はもちろん海外でも人気の高いこのミロンガは、今夜も満席の混み具合。
ブエノスアイレス工科大学 機械工学科を卒業して、フィアットの現地子会社に勤め始めたカルロスは、久しぶりにミロンガに顔を出した。
学生時代も、技術系は忙しい。実験、レポート、課題設計、工場実習と遊ぶ暇は無い。勤め始めてからも、現地ブランドの立ち上げプロジェクトに追われていた。ようやく時間を見つけて、何年ぶりかのミロンガ。
周りを見渡しても、知った顔がいない。
並んだ座席の隅のほうに、若い女の子。学生臭さの残る、黒い髪の目の涼しい娘。パートナーはいない様子。
カルロスは近づいた。
「キエレス バイラール?」(踊っていただけますか?)
「コモノ」(ええ、どうぞ)
「メ ジャモ カルロス」(カルロスと申します)
「ソイ アナマリア」(アナマリアです)
「私、未だ始めたばかりで・・・」
「大丈夫ですよ。僕もあまり上手くないから、お互い様」
フロアは、ラッシュアワーの駅のプラットホーム並みの混雑。カルロスはアナマリアを抱えて、他のダンサーにぶつからないように必死。
アナマリアは、カルロスの胸元から流れてくる、懐かしい匂いに、胸が高鳴った。 初めて嗅ぐ匂いではない。好ましい匂いが、鼻から脳につたわる。
カルロスの背に回した腕に、思わず力がこもる。疼く乳首を、カルロスの胸に擦り付ける。 デジャヴュ(既視感)?
(これは私の知っている誰かの匂い・・・昔誰かと・・・安らかで満ち足りた愛、もしかして、あなたは先生?)
カルロスは、久しぶりのミロンガで出会った純真そうなセニョリータと踊り始めたものの、押し合いへし合いですっかり汗をかいてしまった。アナマリアと名を告げたセニョリータも、人に押されてカルロスに体を押し付けてくる。
学生時代から、女の子と接する機会が無かったカルロスは、アナマリアの豊かな乳房、腰に接触するうち、股間のものがキリキリと勃起を始めてしまった。腰を引いて、何とか隙間を空けようとするが、この混雑では、いかんともし難い。何度か、ペニスがアナマリアの腿を突いてしまう。
(昔、こんなことがあった? 遠い記憶。でも、そんな筈は無い)
嫌な顔をされるのではないかと、顔を赤らめ上目使いに見るアナマリア。が、むしろ嬉しそうにカルロスを見返す。
その唇が微かに動く。
(あなた、もしかして先生?)
カルロスは、押さえの効かない衝動に駆られて、アナマリアを抱きしめた。潜在意識の奥の何かが、震えている。
(先生? そう言う君は師匠? ああ師匠かぁっ)
アナマリアの体が、崩れる。カルロスが慌てて支える。
「ごめんなさい、気分がちょっと・・・」
「じゃぁ、もうここを出よう、僕、車で来ているから、君の家まで送っていくよ」
「ムチャス・グラシアス(どうもありがとう)」
「デ ナーダ(お安い御用だ)、アナマリア」
カルロスは、アナマリアの腕を支え、頬に優しく口付けを。
(師匠 師匠、やっと会えたねえ)
(先生、随分遠くまで来てしまったのねぇ)
(後は若い二人に任せて、僕らは邪魔にされないうちに退散しよう)
(赤ちゃんが、すぐ出来そう。せんせ ありがと Muchas gracias)
(De nada 師匠)