8:五月十九日、未の刻-2
野伏せりで肝心なのは、襲撃径路と逃走経路を頻繁に変えることだ。そうすれば待ち伏せされず、追っ手もまきやすくなる。だから、鳴海方面だけでなく沓掛方面へ抜ける道もちゃんと用意してある。義元たちはそのうちのひとつを逃走経路に選んでいたのだが、政綱はほかにも、いくつかの道を造っていた。
(お屋形様は、義元より先に沓掛へ行かれるおつもりか? とすると、どの道が一番よいだろう……)
そんなことを考えたせいで、政綱の馬が若干遅くなった。
途端、死に物狂いの信長にスルッと追い越される。
「お、お屋形様ッ!?」
「急げ急げッ! 義元より先に沓掛へ出るのじゃッ!」
いましがた来た道を、なにかに追われているような勢いで駆け戻り始める信長。
こんな機会は二度とない、ここで義元を逃せばわしは死ぬ――そう思い詰めている瞳が、行く手の右の山裾に、わずかな異変を捕らえた。
西山の東へ回り込むように伸びている、やや登りになった獣道のような細い細い筋。
それを挟むように薮が無理矢理掻き分けられ、押し踏まれている。
そこかしこにある潅木の枝の折れ口が、瑞々しく白い。
ほんの少し前に、大勢の人間が、大慌てで登って行った証――。
「そ……そこでござるっ!」
追いついてきた簗田の短い一言が、信長の直感を刺激した。
(そうか……義元も、一刻も早く沓掛へ戻ろうとして、この道を進んだのじゃなっ!)
根本の所で大きく間違っていながら結果的には大正解になることも、極稀にある。
(この先に義元がいる……必ずいるッ!)
確信し、馬首を東に転じて坂を登りきった先に――果たして本当に義元がいた。
二町ほどの坂道を登りきった直後、谷筋に沿って北へ目を向けると、三町ほど先、林立する松の根に足を取られながら、三百騎の旗本に守られた大柄な男がひとり、笹が生い茂る斜面を必死に駆け下っているのが見えた。だれかに馬を借りたらしいが、荷駄用だったのか鞍も鐙もない。そのせいで、上手く操れないようだ。
それでも、泥塗れになった徒歩の小者たちよりもは先に進んでいる。
あと少しで、広く平らな場所へ出られそうだ――と。
「あそこは深田のようになっております!」
信長に追いついてきた簗田が短く叫び、義元たちが降っていった跡のある谷筋より西側に馬を寄せて、斜面を横へ走り始めた。意図を察した信長も、
「いたぞ、あそこだッ! かかれ、かかれぃっ!」
槍を捨てて刀を引き抜き、谷底を避けて馬を走らせる。
この谷筋は次第に幅を広げ、やがて池へと到る。谷底をそのまま辿っていくと、そこに追い込まれてしまう形になるのだ。
だから織田の騎馬隊は谷底を避け、走りにくい疎林の中を敢えて広く展開して行く。
今川方の旗本も、自由に動ければそうしただろう。
だが、彼らには義元がいる。
大将を守らなければ、ここにいる意味がなくなってしまう。
それがために――。
――初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退聞けるが、二、三度、四、五度、帰し合ひゝゝ、次第ゝゝに無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず、服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。是れ偏に、先年清洲の城に於いて武衛様を悉く攻め殺し侯の時、御舎弟を一人生捕り助け申され侯、其の冥加忽ち来なりて、義元の頸をとり給ふと、人々風聞なり。運の尽きたる験にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付きゝゝ、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り侯。頸は何れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣侯なり。
(太田牛一『信長公記』首巻)