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『誤算』
【歴史 その他小説】

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4:五月十九日、寅の刻-1

4:五月十九日、寅の刻
 東の空が白々とし始めたころ――今川勢の砦攻めが突如として始まった。
 正確に言えば、始めさせられた、だ。
 丸根砦の将・佐久間盛重が、薄暁の底をヒタヒタと迫り来る松平党に対して決死の突撃を敢行したのだ。
「馬鹿な、いったいなにを考えておるのだ!」
 予定より遥かに早く始まった干戈の響きに、思わず床机を蹴って立ち上がる義元。
 夜の間に桶狭間村から鳴海道を通って漆山の麓を巡り、中島砦から出て来るであろう織田方の後詰めを討つべく、橋のこちら側に当たる諏訪山に陣取っていたのだが、それは満ち潮の状態でしか意味のない布陣。潮が退いているいまなら黒末川の河口を押し渉れるから、折角の策が崩れてしまう。
「元康か? いや、そんなはずはない……」
 丸根砦攻めの先鋒を命じた松平元康は、まだ十七歳の若党だが、たった一代で三河統一を成し遂げた祖父の清康に似てかなりの戦上手だ。義元の策の要諦をしっかり理解しているはずだから、たとい功を焦ったとしてもこんなに早く突っ掛けるわけがない――。
 そう思っているうちに次々と伝令が駆けつけてきて、織田方の将が砦から打って出てきたことを知った。
(死地に陥ったと思い、自棄になったか……いや、いまなら鳴海側から救援が来てくれるかもと、わずかな望みに縋ったのじゃな)
 相手側の思惑がどの辺りにあろうとも、始まってしまったものは仕方ない。すぐに頭を切り換え、朝比奈隊や井伊隊に下知を飛ばして鷲津砦攻めを始めさせる。
 織田方の後詰めを牽制するため、本軍も動かさなければならない。
「すべての足軽に松明を持たせよ! 前衛は西へ降りて丸内まで、中衛は北へ降りて橋のたもとまで進め!」
 こうして忙しなく動き始めた今川軍だが、黒末川の北、織田方の中島砦や善照寺砦にはなんの動きも見られなかった。陽が昇り、朝日が斜めに射し込むころになっても、後詰めの兵が現れる気配はまったくない。
(どうしたのだ織田方は? 砦の将や兵を見殺しにする気か?)
 苛立った義元はいったん兵を退き、河口のこちら側に大きな隙を作って見せたが、それでも織田方は動かなかった。さすがに中島砦では幟が右往左往し、それなりに騒がしくなっているようだが、多勢に無勢と諦観しているのか打って出てくる気配はない。
 そうこうしているうちに潮が満ちてきて、河口が広がり始めた。騎馬ならまだ渉れるかも知れないが、歩兵はもう無理だろう。
 一方、砦攻めは順調に進んでいた。
 将自らが決死の突撃を敢行した丸根砦は一刻も保たずに陥落したし、丸根攻めを終えた松平党が鷲津攻めにも加わったから、辰の刻を待たずにこちらも陥落。
 一般に城攻めは五倍の兵力で行うものとされているが、丸根砦に兵を貸していた鷲津砦には百五十名ばかりしか残っておらず、対する今川方は朝比奈・井伊の二千に松平党の千を加えて計三千。二十倍の兵力で攻めかかったのだから、攻防と言うよりもはや一方的な蹂躙に等しかった。
 絵に描いたような圧勝ではあるが――。
(ぬぅ……勝ったはよいが、これは少し早すぎる……)
 鬨の声を聞く義元の胸中に、ふっと、微かな不安が芽生えた。


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