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『誤算』
【歴史 その他小説】

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1:五月十七日、巳の刻-1

1:五月十七日、巳の刻
「ぎょうげな縄張りだなも。お城でも造るだきゃ?」
「うるさい。おぬしらには関係ないことだ、黙って働け!」
 足軽に邪慳に追い払われた老人は丸めた背をひょっこりひょっこり揺らし、その場からゆっくり離れた。仲間の炭焼職人たちと合流し、薮の切り払いを手伝い始める。
 知多郡桶狭間村、東西に伸びる大高道と南北を繋ぐ近崎道が交差する辺り。
 大池そばの長福寺を北に見るなだらかな丘の上、東西南北二町(一町は約100メートル)ずつという広い範囲に雇い人足たちが散らばって、薮払いを行っている。瀬名の馬印を掲げた今川の兵たちも将の指示を仰いで働いているが、どことなくのんびりしており、戦場特有のキリキリとした気配は感じられない。
 というより、この地方独特のじっとりとした暑さに参っているようだ。
 伊勢湾と三河湾というふたつの内海に近く、しかも丘に囲まれた浅い盆地だから、暖かく湿った空気がたまりやすい。そのうえ今年は空梅雨で、もう十日も雨が降っていない。
 傍にある大池の水も目に見えて減り始めており、田圃には一応水が張られているが、畑の作物はしおれ加減だ。
 空を見上げれば、雲ひとつない上天気。夏を先取りしたような強い陽射しが丘の上で働く男たちをジリジリと炙っている。あちこち穴の開いた野良着の雇い人足たちでさえ早くも汗みずくになっているのだから、胴丸に陣笠の足軽たちは蒸し風呂に閉じ込められているような気分だろう。
「……簗田様に報せるだきゃ?」
「それは夜になってからでええ。縄張りは広いが黒鍬衆が見当たらにゃあで、重要な作事ではにゃあのじゃろ」
 仲間の問いに簡単に答えた老人は、五年ほど前、数人の若者を引き連れて沓掛村と桶狭間村の境界辺りに住み着いた流れ者だ。その正体は織田方の将・簗田政綱の手の者で、今川方の大高城への補給隊を襲う野伏せりの頭領でもある。
 今川義元が大軍を率いて三河へ遠征してくるという噂は昨年の夏頃から流れ始めていたが、そもそも織田と今川の小競り合いは十年以上も続いている。城を盗ったり盗られたりしている愛知郡や知多郡、三河などには当然両陣営の諜報網が整備されており、この老人たちもそんな網の目のひとつだ。なにかが引っ掛かれば御の字という気長な待ちの姿勢でいたところへ、今朝方今川軍の先鋒隊が引っ掛かってきた。
 丸に二つ引両の馬印は、瀬名氏俊。
 駿河今川氏からみれば同じ今川の血を引く遠縁であり、また、九州探題を命じられた祖先を持つ武の名門でもある。義元の本気さ加減が伺える人選だ。織田と今川を天秤にかけてフラフラしている知多や三河の豪族に、今川の武威を見せつけようというのだろう。
 義元本軍に先行して池鯉鮒を発した瀬名隊は、桶狭間村に到ってしばらくの間あちらこちらを調べて周り、やがて大池と長福寺の南側、瀬戸山と呼ばれる緩やかな丘を選んで陣を構え始めた。臨時雇いの人足を徴発するようだったので、村人に混じって見物していた老人たちもこれ幸いと、何喰わぬ顔で潜り込んだのだ。
「重要な作事でにゃあとしても、この広さは尋常じゃにゃあで。今川方は、ここでなにをする気だきゃ?」
「手を止めるでにゃあ、助六」
 短く叱った老人がさり気なく立ち上がり、ひとつ大きく伸びをした。足軽に睨まれて慌ててしゃがむが、その間に多くのものを見てとっている。
「薮を払って窪みを埋めて、地面を平らに均しておる。荷車を入れるためじゃろうな」
「なぜそんなことをする?」
「我らが野伏せりで今川方の兵糧をぎょうさん奪ったじゃろ。だもんで、ここにいったん溜めたあと、大軍勢で守りながら一気に大高へ運び込むんじゃ」
 老人と若者たちは現地に溶け込んで諜報の拠点になることが主目的なので、今川の補給隊を直に襲撃したことはない。だが、野伏せりに参加している連中も同じ簗田配下なのだから、「我ら」と言っても間違いではない。
「ここに砦なり城なりを築かれれば厄介じゃが、いまのところその気はにゃあようじゃ」
「黒鍬衆がおらにゃあで、せいぜい逆茂木を立て回すくらいが関の山か」
「うむ、その通り」
 黒鍬衆とは土木工事専門の下級兵士を指すこともあるが、この場合は知多の黒鍬衆だ。
 伊勢湾と三河湾を隔てるように迫り出している知多半島には大きな川がなく、長い間水不足に悩まされてきた。そのため溜池が盛んに造られ、土塁や石垣造りにも通じる土木工事のノウハウが培われた。そういう技術や知識を集積し、専門家として独立した勢力をなしつつあるのが知多の黒鍬衆である。
 彼らが西日本各地へ出稼ぎに行って有名になるのは江戸時代に入ってからだが、ここは地元であるため、その実力はすでに知れ渡っている。織田方も今川方も、城や湊、堤を作る場合には、ほぼ必ず黒鍬衆を雇っている。
 それが見当たらないのだから、ここに本格的な施設を造る気はないと判断したのだ。
「無論、黒鍬衆を使わにゃあでも作事はできようが、速さが俄然違ってまう。ましてここは尾張と競り合っておる場所。速さが必要でにゃあ作事などありゃあせんから、これも恐らくは一日仕事」
「黒鍬衆なしで、この広さで、この人数で一日でできることなど、知れとるわな」
 そう判断した老人と若者たちは、以降日暮まで黙々と働き続けた。


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