第三話「となりの前原裕輔」-1
朝のHRが終わり、一時間目の授業は化学1B。
チャイムがなり、教室のドアが開く。
なめられていない教師の証だろう。ざわざわしていた教室が静まり返る。
化学の教師といえば、神経質そうな白い服をきたやせぎす男性。
または眼鏡をかけたインテリっぽい女性が担当教師。
それは明らかにほのかの偏見には違いはなかったが。
しかし、今回はほのかの偏見通りだった。
化学の先生は眼鏡をかけたインテリ美人の女教師。
鋭い目つき、白い肌、スタイル良いスレンダーな体型。
表現するならばクールビューティー。
名前は進藤藍子。
容姿端麗な美人ではあるけど、やはり冷たい印象はぬぐえない。
正直、ほのかはあまり得意な先生ではなかった。少し怖いからだ。
ここほのぼの学園は県内の進学学校の一つである。
だが、私語を謹んで真面目に勉強をしている生徒は少数。
それでも彼女の授業だけは皆、真面目に授業を聞いている。
怖い、というだけではない。
彼女には魅惑的で知性的な大人の魅力がある。
男子、女子ともにあこがれてしまうような、そんな魅力だ。
苦手といっておきながらも、ほのか自身、少しあこがれてしまっている。
「水素、重水素のように同じ原子番号ながら質量が違う原子があります。
これは中性子の数が異なり、同位体。或はアイソトープといいます」
いつものようにテキパキと淡々とした授業が進む。
ほのかは真面目に授業を受けていたが、一時間目なためか目が少しとろんとしていた。
時折目をこすりながら、それでもノートだけはがんばって書いていく。
「はい。次に行きます」
先生はそう言って、黒板に書かれた文章と化学式を問答無用に消していく。
この先生の唯一の欠点は、書く作業と消す作業が早いことだ。
もちろん、ほのかもそれを知っている。
だから、ノートも早く書くようにがんばっている。
しかし。
「あぁ、まだ書いてないのに……」
こういう生徒もいる。
ぽそりと呟いたのはほのかの隣に座っている男子生徒――前原裕輔だった。
内気なほのかはまだあまり話したことないが、普通の男だ。
でも、笑顔が少し素敵だなって思う。
ほのかは横目でちらりと彼のノートをのぞいた。
あと二、三行程度書き足りないところで終わっているようだった。
どうしよう。見せてあげようかな?
そう思う優しさがほのかの美点だが、恥ずかしさでためらうのが彼女の欠点だった。
結局、悩んだまま視点だけが前と隣を右往左往する。
すると、裕輔が苦虫を潰したような表情をした後、その顔をほのかに向けてきた。
み、見ていたことに気付いたのかな?
恥ずかしさに頬が火照る。
熱くなる頬を抑えようとするが、意識するあまりもっと熱くなっていった。
はずかしいよぉ……。変に思われたのかな。どうしよう。
「あの、宮咲さん」
「ぇ、な、なに?」
努めて平静を装うとして声がどもる。
自分の情けなさに少し心が沈む。
「少しだけ、ノート見せてもらって良いかな?」
あ。そういうことか。
「ぅ、うん。良いよ。……はい」
「さんきゅな」
笑顔の裕輔。
トクン、心臓が鳴り、言葉をつまらせてしまった。
そして絞り出すように声を出す。
「――――ぃ、良いよ。別に」
色々な感情があわさって、思わず赤面しまう。
それを隠すように顔をうつむけて、顔を正面に反らした。
――反らしてから、その反応が失礼なものではなかったと心配になる。
……へ、変な子だと思われたかなぁ
心配性なのである。
再び横目でちらりと前原を見る。
ほのかの心配をよそに彼は早速ノートを写していた。
ホッと胸を撫で下ろす。
ほどなくして。
「はい、ありがと。宮咲さん」
一分もしない内に書き終わり、ノートが返ってくる。
また笑顔だ。
なんだか幼いような可愛いような、そんな笑顔。
「う、うん。ぃ、いいよ。うん」
胸がどきどきする。
前原の横顔を教科書ごしにもう一度ちらりと見る。
再び心臓がトクンと鳴る。
ほのか自身でも分らないくらいに、胸がどきどきして、頬が赤くなる。
鈍感な。
自分の想いにすら鈍感なほのかでも、湧きあがる想いが何かを確信した。
空は青く、緑が祝う、春の終わりに――
ほのかはひさびさの恋をした。