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真夏の満員電車ほど嫌なものはない。
複数の人々の入り交じった様々な臭い、他人と触れ合う湿った体温、騒音、そして……。
吊革に摑まり、電車に揺られている彼女は、顔を顰めていた。
ただでさえ不愉快な空間に身を置いているというのに、その不快指数がますますと高まっていく。
もう、我慢ならない。
そう思い至ったと同時に、側に立っている男性の手首をぎりっと思いきり捻り上げていた。
「いい加減にすれば」
憮然とした表情のまま、低く、抑えた声で威嚇する。
さっきから、隣の女性が唇を噛んで小刻みに震えているのはわかっていた。
周りに男性客もいるというのに、気付いていないのか、全く助けてやる様子もない。気付いている者も、好奇の視線を投げ掛けるのみだ。
顔を赤らめて、半ば涙目になっている小柄でか弱い女性。
そんな女性の姿に気付いたら、正義感の強い彼女は当然看過できなかった。
痴漢行為をしていた男は、慌てて手を振り解こうとするが、彼女はより一層腕を強く掴んで、離さなかった。
次の駅に着いて、まだ喚きたてている男を駅員に引き渡し、彼女はひとまず安堵の吐息を吐く。
しきりに頭を下げて礼を言う女性に、清爽とした笑顔を浮かべて応じた。
彼女は、佐原椎奈。
確実に170センチ以上はありそうなすらりとした長身に、肩につくかつかないか位の短めの髪、健康的な肌の色、くっきりとした形の良い眉の下にある意志の強そうな大きい瞳。女性らしいというより、きりっとした彼女の顔立ちは中性的な美しさを持ち合わせている。柔道をずっとやっているせいか姿勢も良く、歩く姿は堂々と、そして凛としていた。
（……やっば、遅刻する）
ようやく一連の騒動が収束し、ちらりと腕時計を見ると、彼女は慌てて学校へと急いだ。
「相変わらずだな、椎奈は」
彼女の家とは反対側のベランダに立っている正面の男は、欄干の上に腕を置いて頬杖を付き、揶揄するような目つきで彼女を見つめた。
「は？何がだよ」
彼の言葉が癇に障ったのか、椎奈も彼を睨み返す。
「朝、痴漢突き出してただろ？」
「……孝太郎、お前、見てたんなら助けてやれよ！」
椎奈は眉根を寄せて、ますます険しい視線を彼に浴びせる。ああいう卑劣な輩を黙って見過ごせる、その神経が彼女には信じられなかった。
「仕方ないだろ、同じ車両でも遠くで気付けなかったんだから。俺が気付いた時は、もうお前が大声張り上げて痴漢を電車から引っ張り出すとこだったんだよ」
肩を竦めて、彼は空を仰ぎ見た。夏の星座が晴れた夜空に鮮やかに瞬いている。
「だってさ、あんなに怯えてる女の人ほっとけないもん」
彼女はまだ不機嫌そうな顔で、小言を呟く。自分が気付けたのなら、周りにいた男共のいずれかだって当然気付いていたはずだ。それなのに誰も助けてやらないなんて、本当に情けない。今朝の出来事を思い出して、また彼女は憎々しげな表情を見せた。
「ま、そこがお前のいいところでもあるけどな」
「何だよ、やっぱバカにしてんだろ」
椎奈は唇を尖らせて、そっぽを向くと、
「してないって」
彼は少し微笑んで、彼女の顔を優しく見つめた。
そんな彼、草薙孝太郎は、椎奈とは家が隣同士で、幼い―――生まれた時から仲よくしていたいわゆる幼馴染。小学校の頃から、近所の同じ柔道道場に通っていて、ケンカ友達であり、よきライバルであるとも言える。
2人の部屋は家同士がちょうど隣り合っている部分であり、昔からよくこうやって窓越しに話をしていた。住宅地に密集して家が建っているため、隣同士の家との距離は狭く、互いのベランダからベランダまでの距離は1メートルもない。体格の小さい子どもの頃とは違い、立派に成長した今となっては、その気になれば容易に飛び移れる距離だ。
孝太郎は、椎奈の体にそっと目を向ける。風呂上がりなのか、Tシャツに短めのパンツとかなりラフな格好だ。長身の彼女のすらりと長い足が覗いている。運動をしているせいで、細すぎず、程よく筋肉のついたふくらはぎが健康的で美しい。上半身も、たぶんノーブラだろう。
年頃の女性だというのにあまりにも隙だらけで、孝太郎の方が心配してしまうくらいだ。いや、彼の前だからこそ、無防備にしていても全く構わないと彼女は思っているのだろうか。
長い間ずっと側に居すぎたせいか、彼女は彼を男として意識していない。それ以前に、彼女自身が自分を女だという事も深く気にしていないのかもしれない。幼馴染という、この近いようで、彼にとっては果てしなく遠くもあるこの関係はいつまで続くのか。