瑠璃色の蝶-1
漆黒の闇の中、壁に飾られた瑠璃色の蝶の標本がよく映えていた。私はソファに横たわりながら、その蝶を目で触れる。あれが部屋の、主の心の何を象徴しているのか、考えてみたが答えはみつからない。ほとんどが黒い家具で埋め尽くされているはずのこの部屋に、ぽつんと一匹だけ儚い希望のように光る、あの蝶の所以が。
「はい、コーヒー、いるだろう」
テレビから漏れる冷たい光に照らされて、先生は現れた。両の手を2つのカップで塞ぐ。私は半身起き上がってそのうちの1つを受取り、小声でありがとうと言った。
先生は私の腰掛けているソファには座らず、カーペットの上にばら撒かれたクッションの一部に腰を降ろした。そして、ゆっくりカップに口つける。
「先生、眠くないの」
コーヒーなんか飲んだらよけい眠れなくなるよ、という言葉は伏せた。だって、折角私の分まで淹れてくれたコーヒーだから。そんなこと言ったら厭味ったらしいだろう。
それに、私自身、実はカップの中の焦げ茶色が嬉しかったりする。先生がミルクではなくて何でコーヒーを持ってきたのかな、などと予め都合のよい嬉しい答えを用意して、自分に問うて気を弾ませている。
午前2時。高校2年生の私よりも、先生の方が絶対疲れている筈なのに、眠そうな顔ひとつ見せない。
それどころか、私の問いに優しく微笑んで応える。
「眠くないよ。藤沢透子が来て、一気に目が覚めたから。」
私は言いたくても言い出せない要望を、押さえつけるようにコーヒーを喉に流しいれる。今現在、先生は私を藤沢透子、とフルネームで呼んでいる。それは、先生が教師か1人の男かの狭間で、揺さぶられていることを表しているのだろうと密かに思う(否、「願っている」という言いまわしに近いかもしれない)。最初は藤沢、それから時々透子と呼んでくれるようになって、今では大抵の場合、藤沢透子と呼ぶ。出来れば、定着しないで欲しい。
正直、透子、と呼んで欲しいけれど。結局呼び方なんてどうでもいいような気もするし。その一方で、先生が宝石を掘り起こすように極めて丁寧に、透子、と言うときの声が少しだけ嬉しいのだけれど。単なる私の勘違いかもしれない。本当は先生、特に何も考えないで、私のことを透子、と呼ぶのかもしれない。私の身勝手な妄想が、そう聞こえさせているのかもしれない。
それから、私はそういう「かわいいオンナノコ」みたいなことはしたくない。柄でも無いから。たとえ好きな人とは言え、無垢を気取っていると思われることが嫌なのだ。私が男だったら鬱陶しいと思うに違いないし。
先生の望む付き合いをしたいのだ。実際自分で勝手に描いているだけで、本人にそれを聞いたわけではないのだが、愛しているからと言って、お互いはお互いであり、1つではない。あっさりしていて、しかし愛しあっている。きっと無口で冷静な先生は、今まできっとそういう恋愛をしてきたのだろうと思う。
「それに明日は4時限目から授業だから、寝坊しても大丈夫なンだ」と、先生。
なんだ、そういうことか。
テレビから漏れる冷たい光に照らされながら、私は再びコーヒーを飲む。もとより闇の中にある、カップの中の焦げ茶色が更に黒く、くすんで見えた。
今、テレビの中では眉に皺を寄せたアナウンサーが、ニュースを読んでいる。