気づかなかった想い-1
それからどうやって家に帰り着いたのか、良平は思い出せなかった。
気づいたときには自分の部屋のベッドに横になっていた。
身体が鉛のように重かった。明け始めた戸外の光が窓のカーテンを白く無機質に染めていた。
いつもベッドから降りる6時になっても、良平は身体を動かすことができないでいた。
彼はそのままぼんやりと灰色の天井を眺めていた。
部屋のドアがノックされ、良平の母親の声が聞こえた。「良平」
そしてそっとドアが開き、母親が顔を覗かせた。
「ああ、母さん。今日は休むよ。会社」
母親は部屋に入り、良平のベッドの脇にしゃがんだ。「大丈夫かい?」
「頭が痛くて……」
「風邪ひいたのかもしれないね。熱は?」
「熱はないみたいだ」
「朝ご飯はどうする?」
「いいよ。食べたくない」
「そうかい……」母親は立ち上がった。
「会社には電話しとく。もうしばらく寝てるよ」そして良平は、自分を見下ろし、心配そうな表情をした母親に顔を向けて力なく笑った。「ごめん、一人にしといてくれないかな……」
「そう……。何か食べたくなったら下りておいで」
「うん。ありがとう……」
ドアが閉められた。良平は目を閉じた。
昼になって、スウェット姿でダイニングに下りてきた良平に、母親が言った。「何か食べるかい?」
「りんごでもむいてよ。それだけでいい」
良平は冷蔵庫を開けて缶コーヒーを取り出し、その場でプルタブを起こして一気に飲み干した。
母親がむいてくれたりんごの一切れを食べた後、良平はケータイを開けてボタンを押した。
ペットコーナーで、仲睦まじい初老の夫婦にハムスターの飼い方の説明をし終わってスタッフルームに戻ったリサは、ケータイの小さなランプが点滅していることに気づいた。
彼女はすぐにそれを開いた。「ショートメール?」
『今日は仕事を休んで迷惑かけて申し訳ない。明日はたぶん大丈夫』
リサは胸騒ぎを覚えた。
文面の『たぶん』という言葉が妙に気になった。
「部長……天道さん……」
リサは小さく言って、そのメールに返信を送った。
『お見舞いに行ってもいいですか?』
すぐにその返信があった。
『いや、たぶん大丈夫です。心配しないで』
――また『たぶん』。
リサは、ペットコーナーの主任に、定時の夕方7時に帰してくれるように頼み込んだ。その中年の女性主任はあっさりと許可をくれた。
「いつもがんばってくれてる春日野さんだからね。いいよ。今日は早くお帰り」
微笑みながらそう言ってくれた彼女に、リサは丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。新人なのにすみません」
リサは、店を出ると、街の繁華街にある、老舗スイーツ店『Simpson's Chocolate House』に立ち寄った。
店の中にいた女性が、リサの姿に気づいて、小走りで近づいた。「リサ。今日は早いね」
それはリサの高校の時の同級生で、この店のオーナー、ケネス・シンプソンの娘、真雪だった。
「あ、真雪」リサは微笑んだ。「ペットショップ、もう閉めたの?」
「今日は店休日だよ」真雪はウィンクをした。
「それで、ここ手伝ってるんだ。偉いね」
「パパに呼びつけられてねー」真雪は困ったように笑った。
「アソート・チョコレートいただける?」
「いいよ。ラッピングは?」
「うん。薄いブルーのにして」
「わかった。ちょっと待ってて」
真雪は陳列棚からこの店のスタンダードな人気商品の一つ『シンプソンのアソートチョコレート』の箱を手に取り、レジに向かった。そして数種類の包装紙の中からリサに言われた爽やかなライトブルーの包装紙で手際よくそれをラッピングした。
「プレゼント?」
「う、うん。」
「ありがとう、真雪、またゆっくり来るわね」リサは代金を払うと、少し焦ったように店を出て行った。