ルージュ×ブランシュ-2
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こことは違う街だったが、滞在宿の食堂で朝食の時に、看板娘が男性客たちへ小さな焼き菓子を配っていた。
それは愛の告白ではなく、祝祭日に乗じた店のサービスだ。しかし、可愛いらしい年頃の娘から愛嬌たっぷりに渡されれば、悪い気のする男はいないだろう。
看板娘は華奢な腕に下げたバスケットから、一個ずつ焼きたての菓子を取り出し、それをやに下がった顔で受け取る男たち。
そんな様子を横目で眺め、エリアスは内心で頷いた。
ルージュ・ディは厳粛さとは無縁の、恋や愛を名目に浮かれ騒ぐ日なのだ。
大変宜しい。
去年の今頃は、海底城からの追っ手が厳しく、とても呑気に祝祭を楽しむ余裕などなかった。
そして面白そうな事が大好きなミスカは、この紅白の恋人記念日を後から知り、非常に悔しがっていた。
だから思い切って、こっそり小さなチョコレートを買っておいたのだ。
「好きです」や「愛しています」と、エリアスはどうしてもミスカに言えない。
相手を利用する嘘の甘い囁きなら、万通りも言えるのに。ミスカにだけは言えない。
―― 多分、嘘でないから言えないのだ。
エリアスがミスカを本当はどう思っているか、とっくにバレているだろうに、それでも言えない。言おうとすると、顔が真っ赤になり、呼吸が苦しくなって、恥ずかしくてどうしようもなくなる。
しまいに口を突くのは、すっかり口癖になってしまった「大っ嫌いです!」だ。
お見通しのミスカはいつもヘラヘラ笑って、それでも良いというけれど、エリアスも少しは罪悪感を抱く。
一年に一度くらい……こんな浮かれた空気に紛れてなら、言えるかもしれないと思った。
最悪は口をつくのがお決まりのセリフになっても、購入したハート型のチョコレートには、ちゃんと愛の言葉のメッセージが書かれている。
このチョコレートを買うのにすら、とてつもない勇気を必要としたのだ。
やがて看板娘はエリアスたちのテーブルへもやってきた。
『ルージュ・ディのお菓子です! これからもご贔屓に!』
普段は傭兵青年の姿をしているエリアスにも、愛想よく菓子は差し出された。
『ありがとうございます』
にこやかな笑みを浮かべて、エリアスは受け取った。続いて看板娘は、向かいに座っているミスカにも焼き菓子を差し出す。
『はいっ、そちらのお兄さんも!』
ここに滞在して半月ほどになるが、この可愛らしい少女はミスカによく見惚れていた。
本格的な恋とは呼べない、ちょっとした淡い感情だろう。
実際、ミスカの見た目はかなり良いし、セクハラ脳天気男とはいえ、中身も総合的には非常に良いのだから。……そんなことは絶対に言ってやらないが。
しかし、当然受け取ると思ったのに、ミスカは苦笑して手を振った。
『悪いな。俺は遠慮しとく』
『え? あ、はい……』
看板娘はがっかりした顔で菓子を引っ込め、さっさと他のテーブルへ行ってしまった。
『ミスカ……甘い物が嫌いになったのですか?』
エリアスは声を潜めて尋ねた。確かこの男は、菓子類全般が大好物だったと記憶していたが……。
『あれはルージュ・ディの菓子だから、欲しくなかったんだよ』
金色の瞳がチラリとエリアスを眺め、なぜか少しばかり不機嫌そうな声で返答された。
『はぁ、なるほど……』
どうやらミスカが好きでなかったのは、この祭りの方だったようだ。
去年は逃したのをあれほど悔しがっていたというのに、何か思うところがあったのだろうか。
拍子抜けしたが、エリアスはそれ以上は追及せず、貰った焼き菓子を口に入れた。甘くて普通に美味しい。
どんな日に食べようと、菓子の味は同じだ。
(ふー……、危ないところでした……)
表情には出さず、盛大に冷や汗をかく。周囲の浮かれムードに乗じて恥ずかしいことを口走ったあげく、困惑顔などされたら、絶対に立ち直れない。
(やはり、慣れないことをしようなど思い立つと、ロクなことになりませんね)
用の無くなったチョコレートは自分で食べる気になれず、通りすがりの小さな子どもにあげてしまった。
ミスカはその日、朝からずっと妙に不機嫌で、その夜は久しぶりに水触手まで使って、執拗に抱かれたのも覚えている。
貪るように口づけては、何度もエリアスの耳元へ『好きだ』、『愛してる』と囁いた。繋がったまま繰り返される言葉は、いつもよりどこか必死な気がした。
しかしミスカはいつだって、いとも簡単にそれらを言うのだ。
そしてエリアスも、今日こそ言えるはずだったのに、機会は水の泡に消えてしまった。
―― ホッとしたような……残念な気もした。