003 天井の金魚-3
帰り際に職員室に立ち寄って、帰宅することを告げる。
すっかり暮れてしまった夜道を和華と惣子朗は、普段はそうすることがないのに、とてもとても自然に、自然に肩を並べて歩く。とくん、とくんと、少しだけ響く鼓動がなんだか少しくすぐったい。隣を意識する。平均よりもやや高い和華の頭が惣子朗の首筋辺りにあることを知って、ああ、男の子なんだなと、妙に関心してしまう。
「天井の金魚の話、覚えてるか?」
他愛もない会話の途中で、唐突に惣子朗がそう問い掛けてくる。安らかな気持ちになるよ──と、あの日の時間を思い出す。彼との話を、忘れるわけもない。
「覚えているわ。江戸時代の大阪で、繁栄を極めていた豪商が、天井を水槽にして下から金魚を眺めていたって話ね」
「ああ、それ。俺さ、あれから少し考えたんだよ」
歩みを進めながら、惣子郎は少し腰を屈めるようにして和華の顔を覗き込んだ。一瞬だけ胸が大きく高鳴ってしまったのは、内緒だ。
「七瀬はどう思う?」
「どう思う、って?」
「金持ちだかなんだか知らないが、なんだって天井に金魚を飼ってみようだなんて思ったんだろうな。七瀬はさ、その豪商は、天井で泳ぐ金魚を見て、なにを考えたと思う?」
難しい質問だった。惣子朗の話を聞いて、興味を持った和華は天井の金魚≠ノ関する本を探してみた。けれど見つけられなかった。惣子朗の疑問はそのまんま和華の疑問でもある。ゆらゆら、ひらひら。下から見上げたその先の水槽で各々と揺らめく金魚の群れ。きらきら、きらきら。けれど、もっとよく確かめたいと、よく見て触れて感じたいと願ってもきっと叶わないのだ。だって天井だから。
「わからないわ。でも、私もそれが知りたい。筒井くんは? 筒井くんは、どう思うの?」
「俺もわかんねー。でも」
星が瞬いていた。惣子朗は星空を仰いで手を伸ばす。
「これと一緒だ。どれだけ手を伸ばしても、届かない、頭の上だから、多分、すげえ遠くに感じるんだよな」
きっと──と、惣子朗は立ち止まった。釣られて和華も足を止める。
空を仰ぐ惣子朗の表情は自分に向いていない。だから彼がどんな顔をしているのか、和華にはわからない。心臓をキュッと抓られたような、痺れるような切なさで胸が震えた。わからないことが切なかった。
「卒業まで半年もないだろ? 七瀬、俺にはさ」
和華も空を見上げる。ああ、夜空なんて久々にまじまじと見たけれど、オリオン座がこんなにも瞬いている。
「天井を泳ぐ金魚が、クラスのみんなに思えてならないんだ」
当たり前みたいに巡り会って当たり前みたいに時を過ごして、当たり前に笑い合って当たり前にそばにいた。同じ目線にあるのが当たり前だったはずの水槽と金魚の群れが、天を泳ぐと。
「泳ぐ場所が変わっただけなのに、途端に手の届かない物のように感じる」
そう言うものだろ、でもそれって、悲しいことなんかじゃなくて、きっと凄いことなんだよな、だからきっと宝物なんだ、今の時間がとても大切なんだ──。
「送ってくれてありがとう」
玄関の前で振り返って、涼やかに笑い掛ける。
「どういたしまして」
惣子朗も笑って、少し照れたように頭を引っ掻いた。
「七瀬、あのさ」
おもむろに通学用バックを探って惣子朗が一冊の本を取り出すと、和華に差し出した。不思議に思いつつ和華はそれを受け取ると、表紙を眺めてみる。ブックカバーで保護されていて、本のタイトルはわからない。
「これって?」
「本、好きなんだろ? 今、読みかけてる途中なんだ。続きは楽しみにしてるから、……卒業したら、返してほしい」
はにかむように、惣子朗は笑った。
「高等部でも、同じクラスになれたらいいな」
また明日──そう言い残して、惣子朗は和華から遠ざかっていく。どんどんどんどん、視界の彼方に過ぎて行く。
和華は溶けるように熱く、締め付けられる胸をそっと押さえた。息苦しくて、もやもやする。天井をガラス張りにして金魚を飼ったと言う豪商、天井には手が届かないと言った彼。──今だってそうだ、小さくなる惣子朗の背中に、手が届かない。届かない。
わからない、彼に対するこの感情が、なにかなんて。