003 天井の金魚-2
授業が終わり、いつものように下校途中に立ち寄ったスーパーで買い物を済ませ、帰宅して夕飯の支度をし、妹たちに食べさせる。家庭内での和華の夕食の仕事は料理までだった。その後は妹たちに食器洗いを任せ、自分は妹たちが取り込んでいた洗濯物を一枚一枚畳み、整理していく。小学生の時に母が病気で亡くなってから、今ではすっかり慣れてしまった和華の日常。
家事を一通り終えると、自室で本を読むのが和華の日課だった。これまでに沢山の本を愛読した。恋愛物、推理物、純文学、哲学。本のなにが楽しいのかとあまり読書をしない人には聞かれることもあるが、和華にとっては明白な答えがいつもそこにあった。本とは和華にとって、人々の想いの集合体だった。物語に登場する人物、そして彼らを作り出した著者、それぞれがなにを考えなにを経て、なにに至るのか。彼らの人生の重要場面に出くわした和華は、彼らと同調し、深く深く理解を示そうとする。架空人物だからなんだと言うのだろう。だって、彼らは紙上に描かれた活字の中で、間違いなく生きているのだ。だから和華は、本が好きだった。
その日は体育の授業があった。夏の残暑も過ぎ去り、すっかり肌寒くなった十月の中旬、和華はうっかり体操着を教室に忘れてしまったのだった。家庭事情の影響か、しっかりしていると言われる和華だが、普段気を引き締めている反動からたまにこうして物忘れをしてしまうことがあった。もっともそれで人の迷惑になったことは、少なくとも和華の認識の範囲内にはこれまでなかったのだけれども。気付いたのは夕食を済ませ、真新しい洗濯物を脱衣所に出しに行こうとした時である。時刻は午後六時半を廻っていた。和華は少し考えてから、父親が帰宅するまでにまだ時間があることを確認して、家を出た。
職員室で先生に事情を説明し断りを入れる。和華は闇の深い階段を前に薄気味悪さを覚え、急ぎ足で駆け上がり、三年B組の教室を目指す。そして、仄かな灯りの漏れる扉を前に息を飲んだ。緩慢な手付きで、物音を立てぬように戸を引く。まさかとは思ったが、それでも、心のどこかでは期待もあったのだ──けれど、記憶と同じ場所にその人がいることが、不思議で仕方がなかった。
静まり返った教室、窓際の後ろから二番目の席で、筒井惣子朗(男子十番)が幼気な素顔を見せて眠っている。普段から穏やかで温厚な人柄の惣子朗であっても、こんなにも子供のようなあどけなさは感じたことがない。和華はゆっくりと歩み寄り、すやすやと眠る惣子朗を暫し見詰める。こんな時間まで、なにをしていたのだろう?
机に突っ伏した惣子朗の手元を見やる。三泊四日・沖縄の旅──その文字を認めて、和華は胸の奥からなにか温かいものがこみ上げて来るのを感じた。──こんな時間まで、たった一人で、これを仕上げていたと言うの?
和華は惣子朗の肩に添えるように手を置き、呼び掛ける。疲れて眠る惣子朗の目覚めを、少しでも気持ち良いものにしたくて、出来るだけ優しく、優しく。
「筒井くん、起きて」
くすぐったそうに少しだけ身体が揺れる。そして惣子朗はすぐに瞼を開けた。
「……七瀬か?」
和華の姿を認めた惣子朗が、少しだけ目線を逸らして壁に取り付けられた時計を見やる。現在の時刻を確認すると、身体を起こして和華を不思議そうに眺めた。
「お前、こんな時間になんでいるんだ?」
「それは私のセリフよ? 筒井くんこそ、こんなに遅くまで」
和華は惣子朗の手元を見やる。
「……ずっとそれを作っていたの?」
惣子朗が手元のそれに視線を落として、少し微笑む。
「ああ、あと一週間しかないからな。最後にきちんと修正しておきたかったんだ」
言いながら、やや散らばった資料をその手に纏めていく。
「でももう終わりだ。みんな喜ぶかな?」
資料を片手に微笑む姿はどこか清々しく、和華も自然と穏やかな気持ちが強くなっていく。本当にこの人は──例えるなら、青空のような人だ。大きくて、広くて、高くて、綺麗で。和華は青空が好きだ。晴れやかな気持ちになって心が洗われるから。
「七瀬はどうしたんだ?」
惣子朗はそう言って和華を見つめる。まだ少しだけ、ぼんやりとした瞳で。
「体操着を忘れたの。洗濯物、まだ回していなかったから、その前にと思って」
「そうか」
和華の家庭の事情のことは多分、惣子朗はクラスの中では誰よりも知っていた。以前和華の口から、直接話したことがあったからだ。変な気を使わせてしまったかしら──と、和華は少しだけ顔色を窺ってしまう。そんな和華に気付いたのか、惣子朗は旅行の資料と鞄を手に持つと、優しく微笑んで言った。
「帰ろうか、送っていくよ」