第1章 日常-1
九月九日 金曜日
早朝の並木通りは、穏やかな静けさに包まれていた。
聞こえてくるのは、小鳥達のさえずりと石畳に響く自分の足音だけ。行く手から爽やかな風が吹き抜けると、そこに緑の梢の優しいざわめきが加わる。
気持ちの良い風ね。清々しい気分を味わい、心が自然と軽くなる。日中はまだまだ暑いけど、朝は少し涼を帯び、早くも秋の気配を感じさせる。
学生の頃から、私はこの桜の並木通りが好きだった。春の美しさは言うに及ばず、豊かに葉を茂らせる、夏の生命力に満ちた姿も好ましい。あと半時間もすれば、学生寮から通学する生徒達でここも賑わうが、今はまだ朝の静けさの中。木漏れ日の描く光の絨毯が、揺らめくように模様を変えるのを楽しみながら、学院への道を歩む。
やがて木立の向こうに、古めかしい時計塔と煉瓦作りの建物が姿を現す。平成に入ってから改修を受けているが、日本でも屈指の伝統を誇る鳳学院高等学校の校舎は、昔ながらの堂々たる佇まいを見せていた。
静謐な朝の空気を震わし、元気な掛け声が聞こえてきたのは、校門に差し掛かる辺りであった。間もなく始まる新人戦に向けて、朝練に励んでいるのか。通りの向こうから、ジャージ姿の男子の一団が駆けてくる。
「桜井先生、おはようございま〜す」
「おはよう。頑張ってるわね、ファイト〜!」
走り抜ける彼等と、すれ違いざまの挨拶を交わし、その後ろ姿を見送る。かつて私も走っていたこの道を、今は教師と言う立場から見守っているのは、未だに違和感を覚える。ふと、先生と呼ばれることに慣れた自分に気付き、気恥かしさが込み上げてくる。
少し早目の出勤を心がけており、朝の職員会議まではまだ余裕がある。いつもの習慣となっている身だしなみチェックを、職員玄関に設えられた姿見の前で行う。グレーのスーツは清潔で、髪もきちんとひっ詰めてあるし、お化粧も乱れてない。でも、鏡の中に映る自分は立派な教師に見えるかしら、と自問する。
念願の教師となり、二度目の二学期。希望していた母校で教鞭とることも叶い、まだまだ若輩の身で至らぬところも多いが、名門校の名に恥じない教師になるため、日々努力を心がけている。
鳳学院の歴史は古い。創立は明治に入って間もない頃で、当初から名家の氏族が通う格式高い学び舎であった。「日本の将来を担う人材育成」を教育目標に掲げ、政財界の強い支援のもと、学院はその伝統を損なうことなく存続し、現在でも旧華族や大手企業の子息令嬢がこぞって入学を希望する。
実質的に上流階級の子弟が多いこの学院では、一般の高校生とは異なる資質、すなわち巨額の資産を運用するための知識や、マナーや作法などの社会教育。なにより、名家の権力に浴することなく、自主自立性を養うことが求められている。