あしあと-12
翌日、集中治療室から一般病棟に移った。四人部屋である。
尿管も外れて、トイレには自分で行かなければならない。
万が一の時はと看護師が尿器を置いていったが、使おうとは思わなかった。
這ってでも自力でトイレまで行ってやろうと思った。
看護師は今は居ない。こうやって、体を横向きにして。これだけでも少々キツい。
渾身の力で手をベッドに突っ張って、体を強引に起こす。
こんなことを父もやったのだろうか。腹から出ている廃液の袋と管を引っかからないように点滴台に引っ掛けて、意を決して立ち上がる。
ふらりとよろめいたが、こらえた。相変わらず、傷口からは気力が漏れていく。
痛みはそれほどではないが、重たい違和感がブラックホールのように俺の体力を吸い込んでいるような気がした。
一歩、二歩、点滴台を杖代わりに病室を出て、トイレまで向かう。
十メートルほどあった。遠い。それでも、歩いた。これで病院中を歩いたというのか。
こんな状態で。信じられなかった。
すれ違う看護師が、俺を見つめてきた。俺が術後だということを知っているのだろう。
息をハァハァと乱しながら、トイレまで自力で着いた時には軽い感動があった。
自力でここまで来れたぞと誇らしい気分になる。
そうして、久々に用を足して、手洗いに鏡の前に立つと俺の顔がやつれきっている。
ひどい顔だと思った。だが、俺も治ってやろうと思った。
帰りは俺を見つめていた看護師がいて、点滴の具合やら俺の体調やらを確認してくれた。
「大変だったでしょう? 帰り、手伝いましょうか?」
看護師はそう言ってくれたが、俺はやんわりと断った。
「いや、なんとか大丈夫ですよ。歩いたほうが、体にいいんでしょう? もう少し、歩いてみたいんです」
廊下の端まで歩いてみようと思った。距離は、二十メートルくらいだろうか。
マラソン並に長い距離だと思った。少しづつでいい、少しづつ歩こう。いい杖が傍らにあるから、これに体を預けて。歩くコツが少し掴めたような気がした。
父もこんな風に歩いていたのだろうか。受験で、あまり見舞いにも行かなかった。
父のいた病院は、ここよりももっと大きな大学病院だった。
その病院中を歩きまわるんだから、大したもんだ。
俺は、この慎ましやかな廊下の端までを歩くくらいなもんだ。それでも物凄い疲労感だ。
ようやく端まで辿り着くと、そこは大きな窓になっていて、外の様子が綺麗に見える。
外は快晴で、青い空が晴れ渡っている。透き通るような青色だと思った。
俺はしばし立ち尽くして、腹を押さえながらその青色を眺めていた。