∀ 一家惨殺事件-1
「約束を破ったのは、お前だ」
知らなかったわけじゃない。気付かなかったわけじゃない。それでも、好きだった。
俺がお前にとって今後も必要な存在なら、正午までに時計台の下に来てほしい。約束だ──と、寂しそうに微笑んだ彼と別れたのは昨日のことのはずなのに、目の前の非日常的な光景に阻まれて、遠い遠い昔のことみたいに朧気で、希薄で、霞む。確かにそれは、同一の存在なのだけど。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。──誰よりもあなたが好きだ、と確かにその時返事をした。偽らざる本心。だって本当に、こんなにも恋い焦がれた人は初めてだった。なのに、それすらも今は疑わしくて、彼と歩いたショッピングモールも、手を繋いだ時の温もりも、湖の畔で口付けしたことも、お気に入りのキャラクターのぬいぐるみで溢れた私の部屋で初めて身体を重ねたことも、その全てが白昼夢みたいに頭の片隅に浮かんでは消え、再び浮かんで、また消える。
けれども、不思議と意外性が見当たらないのだ。優しくて大好きだった彼も、こんなことをした彼も、その表情や話し方は天と地ほども違うのに、やはりどちらも彼は彼で、私はずっと以前から彼の仮面を、その裏を、ふとした時に感じてきた。感じながら、見ない、見えないふりをし続けたのだ。だからきっと、悪いのは、私。
「どうして……」
問い掛けた言葉は独り言みたいに私の周りにくぐもって、彼には届かない。
私は力強く腕にしがみつく小さな手の平を握り締めた。お姉ちゃん、と掠れた涙声は震えていて、どうしようもなくいたたまれないのに、どうすればいいのかわからない。
どすっと、嫌な音が響いた。ソファーベッドの足の狭間から見える赤塗れた腕が、なにかを探るようにもがいて、すぐに動かなくなった。すでに事切れる寸前だったその人は、それでも最後の力を振り絞って私たちのため、止めようと助けようと、必死に頑張ってくれたに違いないのに。彼はそんな父を嘲笑するかの如く、その背中を踏みつけ蹴飛ばして、包丁を突き立てた。
「やめて! やめてよ、もうやめて!」
縋りついて泣く弟の手を振り解いて私は駆け寄った。カウンターキッチンの裏には首を切り裂かれた母が前のめりに倒れ込んでいる。リビングと繋がる和室では、布団越しに滅多刺しにされた祖母が物悲しげにこちら側を眺めていた。もっとも、その瞳は焦点がまるで定まっていない。ソファーベッドの背もたれに隠れているが、そこには兄が横たわっている。父も、母も、祖母も、兄も、つい数分前、この男に殺されたのだ。
「あなたが好きだった」
つい、数分前までは。
「あなたは私が好き? 私と一緒にいたい? 私を殺したい?」
多分、本気になれたと言う意味で、初恋だった。