情欲科学-1
その日を境に、いつもぽりぽりと齧っていたミントのタブレットを私はノンシュガータイプへと変えた。そこに深い意味はあったのかもしれないし、別にただの気紛れだったのかもしれない。しかし、彼の一言が私の中において大きな何かを示しているのには変わりが無かった。
HRを終え、掃除もさっさと済ませ、私は制服のポケットからまた小さな白いタブレットを出す。雪の結晶よりほんのりと薄い黄色がかかった新発売のシトラスミントだ。二、三粒纏めて咥内に放り込み、躊躇わず奥歯で噛み砕く。鼻孔から突き抜ける澄んだ清涼感は、この雪が降る町の身を切る様な寒さにとてもよく似ていた。
「俺さあ、甘いもの食えない体だから」
思い出すのはそう言ってせせら笑う、四十三歳の国語教師。独身。今年度――正確には去年の四月――にうちの高校に転勤してきたばかりだったが、人当たりのいい笑顔とひょうきんさですぐに校内に溶け込んだ。飄々と明るくて、年の割りに嫌味臭くない無邪気な子供っぽさの残る彼は、他の生徒からの人気もそこそこに高いようだった。
そんな彼が何故突然、私にそんな事を話してくれたのかは知らない。煩いくらい蝉が喚く、夏の帰り道の事だった。
うちの学校だけなのか、或いは何処でもそうなのか。世間情報に疎い私は知らないし別に興味も無いのだが、教員達は校舎内での喫煙を禁止されているらしい。
煙アレルギーの小夜子なんかは涼しい顔をして「当然だわ」なんて呟いていたけど、私は別に副流煙の一つや二つ……寧ろ好きだった。
大人は言う。煙草は二十歳になってから吸いなさい。煙草は身体に害を与える。口を酸っぱくして私達「未成年」にその言葉を叩き込む。そして、その「未成年」の目の前で威風堂々それを焚くのだ。
彼らの口を零れた煙は銘柄によって異なる香り、狭い室内で混ざり混ざって不愉快な馬鹿笑いと溶け合って私の鼻から耳から皮膚から、体内へと侵入してくる。血液に溶け込んで一瞬で二周、脳味噌から爪先までを犯すのだ。
直接自分が法を犯すわけではない上に何処にでも見る風景だろうが、あの恍惚とした罪悪感、善を気取った大人の失態、まるで共犯者にでもなったみたいで忘れる事が出来ないでいた。
そして幼い頃から私は、二十歳になったら煙草を吸おうを固く心に決めたのだった。
あれは三月十四日。卒業式も終わって校内が高校入試やら合格発表やらで慌しく駆け回っていたある日、私の留年が決まった。理由は単純明快、出席日数の不足だ。
私の反応も親の反応も、周りの教師の反応だってそれはそれは淡白なものだった。半ば事務的にその事を告げ、担任は去っていく。両親も諦めた様な投遣りな態度で重苦しい溜息を零していた。
見上げた窓越しのとても爽快に晴れた青空は所々に薄い白い流れ雲が遠く広がっていて、そんな彼らを嘲笑うように何も言わないでただ見下ろしていたのを覚えている。
ブーツに履き替え玄関から外に出ると、解けた雪に大分地面がぬかるんでいた。水が跳ねない様に一歩一歩進んで、何気なく振り返る。じんわりと残っていた足跡も、柔らかい黄色い光に包まれてその輪郭を徐々に無くしていった。
別に、そんな事、何とも思わない。
ぬかるみに足を取られない様に真っ直ぐ背筋を伸ばす。真正面だけを見据えて、私は前に進めばいい。留年がなあに。今更退学も怖くない。私がどんな大人になるかなんて、誰も教えてくれないのだから。
四月になれば元・クラスメート達は「進学校の受験生」という大きく重たい看板を背負い、大学合格への長く険しい登り坂を歩く事になるんだろう。まるで他人行儀な自分に何故か笑いが込み上げる。行き場は違えど、かつては同じ結果を追い求めていたはずだったのに。
「おっ、宮城。なに笑ってんだ?」