情欲科学-2
突然背後から掛けられた声にびくりと振り返る。自分でも、些か大袈裟過ぎた様な反応だった。職員用の玄関から、マフラーに耳当てに脛迄隠れる大きなジャンバーコートの完全装備。人懐こい笑顔は、時々まるで作り笑いのように感じて、私は肩に力が入る。ポケットの中のタブレットケースを汗ばんだ手の平でぎゅっと握り締めた。
「……先生」
「どうしたー? なんかおもしれえ事でもあったかー?」
先生は何処か違う地方出身らしく、中々聞きなれないニュアンスの話し方をする。まぁ、実際それが彼の愛嬌を際立たせているんだろうなんて勝手に分析しているだけだが。
「先生、私、留年だそうです。二年生をもう一回」
作り笑いなら誰にも負けない、と思う。唇の端を左右に引っ張って、出来るだけ肩の力を抜いて、両目を薄く細める。さっきは微塵も感じなかったのに、急に眼球がどうしようも無い位熱を持った気がした。
さくさくと踏み進めた三歩。たった三歩が酷く長く感じた。世界が私を中心にひたすら、ただひたすら途方も無く広がっていく錯覚を覚えた。
「あー……そうか」
先生は左のポケットから青いパッケージの煙草を取り出す。私は視線を前方に落としたまま傍らのそれを盗み見る。
そして、無難な反応だね。と、心の中で淡々と誰にも聞こえない悪態を吐くのだ。
「でもまあ、もう一年……いや、二年か。ほら、俺と一緒にいれるし」
「……そうですね」
「嫌か?」
「別に。先生嫌いじゃないし。……あ、チョコレートでも食べます?」
ポケットの中をまさぐると指先にはあのタブレットケースが当たる。プラスチックが微かにぶつかる音、まだ半分くらいそれは残っていた。――今思えばそれは私なりの、精一杯の抵抗だった。
「ああ、いや。いいよ」
上辺に笑顔は浮かべたままで、先生は少しだけ表情を曇らせる。甘いものが大好きだという事、それ位知っている。顔を隠すように緩く右手を面前で振る。そして歩調を緩やかに、今は廃墟と化した空家の軒下へと足を進めていく。
校門を出て徒歩一分。そこが唯一、彼に喫煙を許された場所だった。
私もつられるように歩調を緩めはしたのだが、立ち止まる事は決してない。私がそこにいる限り、彼はライターを出さないだろう。
さようなら。また明日。そんな意味が込められたであろう彼の右手が少しだけ上がる。ほんの少しだけ顎を引き私はそれに答えた。
左手の青いパッケージ、反射光が更に反射して光る。彼の口許を覆うように隠して、慣れた手付きで抜き取る一本の白い煙草。
「先生」
私は足を止めた。振り返る。
澄んでいるとはいえないが、先程より少し開いた距離でもちゃんと届く位の声を発する。
「……先生、その煙草、銘柄教えて下さい」
両目を細めて口端を引いた。私は上手く笑えただろうか。
彼は一瞬戸惑って、そして確認するように自らの左手を確かめる。無邪気な笑顔の向こう側にあるささやかな疑問を、敢えて見て見ぬフリをした。
水戸黄門でも装って、真っ直ぐ私へと向けられる青。
「マイセンの3。……この、『3ミリ』ってのがポイントで」
先生の丸い指先が、青いパッケージに抜き取られた白い数を指す。私はそれに手を振って、背中を向けて歩き出す。
言葉にならない何かが、一気に喉奥まで込み上げて息苦しさに俯いて歩いた。奥歯を噛み締める。ミントはそこにもう無い。
大分歩いて、もう一度だけ振り返った。相変わらず廃墟の軒下には雪だるまみたいな影がいた。
透明に近い白い煙は青々としたあの空に吸い込まれる様に昇っていって、副流煙は風に溶け私の両目に沁み込んで消えた。