アールネの少年 3-7
「あの……?」
「……まさか、本当に自覚していないのか?」
「え?」
「戦場で、何をしてきたか」
エイにとって思いもかけない問いだった。だが王子の表情は真剣だ。何と言うのが正しいのかわからぬまま、彼は応じた。
「何を……戦争、です」
「つまり、戦と殺人は違う。そういう認識か?」
エイは戸惑いを覚えた。
『殺人』という言葉は、彼にはひどく遠く感じられた。シェシウグル王子の言う意味が……わからない。
答えられずにいるエイをひとしきり眺めたのち、シェシウグル王子は難しい顔で腕組みをした。
「……お前の感性はさほど他人とずれてはいないと俺は思う。基本的には、『正しい』と言っていい」
『正しい』。
唐突な一言に、エイは眉をひそめた。正しいとは何だろう。
『正しさ』を問われたら、エイは自分自身の何ひとつ、肯定してやれないというのに。
「『正しい』が言いすぎなら、『善良』でもいい」
言葉を換えても同じことだった。むしろよけいにぴんと来ない表現だ。
「自覚できていないだけで、お前は弱者を傷つけるのを不快に思っているだろう。小動物を壊すのを恐れている。怖いとしたら、きっと復讐が怖いんだ」
そういって彼は軽く親指で自身の胸を指した。
「ロンダ―ンではそれを祟りという」
「た、たり?」
「神の機嫌を損ねると祟る。神の機嫌を損ねるっていうのはつまり……っと」
彼は何かに気付いたように台詞を止めた。
「アールネには信仰がないんだったな。『神』とは何かわかるか?」
「古くて大いなるもの……だと聞いたことがあります」
「ああ。大いなるもの、創造者のみをそう呼ぶ向きもある。うちの神々は少し違う。役割としてはさして変わらんが」
彼は顎に手をあてて、言葉を選ぶように語り始めた。
「何かに見られているようで後ろめたい、という感覚に覚えがあるだろう。信仰はその感覚に名をつけたものだ。もともと個人の中にしかない正悪を、大多数が共有するために作られた」
アールネに国家宗教はない。どこの国にでもある神殿や神社の類は、小さな祠一つさえ存在しなかった。
エイの曾祖父は国家を建てるにあたり、その地に根付いていた信仰を根こそぎ解体し、その意義を失わせしめた、と建国記録は伝えている。
解体は効果的に行われたようで、たった三、四世代目にしてアールネから神は消えた。エイたちには、他国の変わった風習としてしかその思想を垣間見ることはできない。
どのような方法論をもって為されたのか、公式の記録には残されていなかった。それはおそらく代々のアールネ公のみに伝えられていくのだろう。
「何かに対して悪を行なえば報復される。しかしその『何か』に力で勝れば報復を恐れずに悪を行なえるという理屈もまた通用してしまう。社会はそれを抑止するために、『何か』から形を取り払い、人知を超えた格を与えた」
シェシウグル王子の話は、いわゆる神学とは別のものなのだろうが、かみくだかれた説明はエイの頭にすんなりと入ってきた。
「お前が恐れているのは弱者の背後にある、報復する力を持った『神』というひとだ。しかしそれはつまり、お前の中にある『善良さ』でもある、というわけだ。戦場の外で弱者を救うのも同じ理由だろう」
「それは、」
それは違う。
自分でも思いがけないくらいにはっきりと、エイは感じた。
彼の言っている意味は理解できる。そうした、擬人化され公衆化された罪罰概念と、エイの抱き続けている恐怖がまるで無関係とまでは言えまい。アールネには信教はなくとも、生まれつき叩き込まれる法律がその代替をつとめていた。
だが、違うのだ。それは一部であって、主ではない。
……エイは、報復を恐れたことはなかった。
「傷つけたら祟るのなら、傷つけてから恐れればいいのでは? それ自体が怖いのとは違うような」
「恐怖症とはそういうものだ。先走りした妄想が蝕む。理屈は通用しない」
王子の口調はやけに自信ありげだ。流されやすいエイは、そういうものかと一瞬納得しかけたが、ふとひっかかるものを感じて呟いた。
「でも戦場では、何も怖くない」
「……だろうな」
彼は頷いた。何の矛盾もないとばかりに。
「戦場には、正も悪もないからな」
シェシウグル王子はここにきて妙にあっさりとそう言った。
なんだか妙だ。エイは怪訝に眉を寄せた。
彼の分析にはまだ先があって彼はそれを隠している、なぜかそう思えてならなかった。
確信がないために口にできないだけか、あるいは何か口にすることを憚られる……おぞましい事実を、見出したのか。
「さっさと食え。アハトが戻ったら出発するぞ」
最前までの饒舌が嘘のように、シェシウグル王子はそっけなく顔をそらした。
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