オオカミさんの ほしいもの -6
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――生臭い匂いが鼻をつき、無数のうめき声や叫び声が聞える。
家族連れで賑わうモールのあちこちで、ゾンビが客たちに喰らいついていた。
何百回も繰り返し見た、あの日の悪夢が、久しぶりにマルセラを襲来した。
腐りかけた化物たちの身体は、何かの薬品か魔法をほどこされたらしく、異様に筋肉が膨張し、皮膚が裂けて赤い中身を見せている。
両親に連れられ、必死に逃げて逃げて逃げまわった。
怖くてずっと涙が出ていた。
(わるいこと、なんにもしてないのに! なんで!?)
悪い子には悪いこと。良い子には良いことが訪れると思っていた。それまでずっと、周りの大人はそう言ってくれた。
けれどモールに溢れている怪物たちには、善人も悪人も関係ない。子どもだろうと女の子だろうと、容赦しない者がいるのだと、生まれてはじめて思い知った。
ついに両親も食い殺され、口端から内臓をぶらさげた腐乱死体が、マルセラに注意を向けた。足に力が入らなくて、もう立てない。
しかし次の瞬間、化物の頭がザクロのように弾け割れた。
ゾンビが倒れると、頭から足の先まで、返り血で真っ赤にした青年が見えた。
退魔士の制服を着た青年は、手に持った斧を振るい、床でまだ動いていたゾンビの手足を叩き斬った。楽しくてしかたないと言うように、凄惨な笑みを浮べながら。
青年の後ろから、奇声をあげて別のゾンビが襲い掛かってきた。筋肉の異様に膨れ上がった化物の巨体は、青年の三倍はある。おまけに胴体から余分な手を二組ほど生やしていた。
しかし青年は軽々と化物の懐に飛び込み、その巨体を蹴り飛ばした。赤肉がむき出しの身体に大きな穴が空き、続いてあっさりと斧が首を分断する。
震えるマルセラの目に、青年も人外の者だと写った。
人間を喰らう腐乱死体よりも、もっと凶悪で、凶暴で、危険な怪物だ。
血染めになった髪は、もとが何色なのかもわからない。ただ、ツンと二箇所跳ねていた部分が、まるで獣の耳のように見えた。
真っ赤に汚れた顔で、切れ上がった琥珀色の両眼が、金色を帯びてギラギラ輝いている。
どこかでこんな目を見たような気がして、すぐ思い出した。
お祖母ちゃんの農場へ泊まりに行った夜だ。暗い窓の外に、金色の眼が光っているのが見えた。
『狼だ』と、叔父さんが銃を構えて飛び出していったが、農場の子羊を攫った狼は、すぐに逃げてしまった。
――これは狼だ。人間の身体に黒い退魔士の服を着ている、赤い狼の怪物だ。
怖くて両親の遺体に縋りついたけど、もう彼らはマルセラを守ることはできない。
赤い狼の青年は、震えているマルセラを見下ろし、軽蔑したように舌打ちした。
『バカが。だまって泣いてりゃ、英雄が助けにくるとでも思ってんのか』
そのまま彼は立ち去ろうとした。マルセラなんか、見なかったというように。
この狼もやっぱり、ひどい意地悪な怪物だと思った。
いい人も悪い人も関係ない。子どもだろうと女の子だろうと、優しくしない。それでも……
気づいたら、立ち去ろうとした黒い上着の裾を、死に物狂いで掴んでいた。
(オオカミさんは、いじわるだけど、すごくつよいんだよね? きっとだれよりも、つよいんだよね!?
だから……おねがい! わたしのもってるもの、なんでもあげるから……おねがい、たすけて!
わたしの、えいゆうになって!!)
叫んだその声が、本当に伝わったのかはわからない。口が震えるだけで、一声も出なかった気もした。
狼青年は振り向き、凶暴な目がマルセラを鬱陶しそうに睨んだ。
苛立ったような舌打ちが聞え、殺されると思った。目を瞑った時、そっと手を握られて驚いた。
『いやはや、腰が抜けちまってんのか。これだから弱いガキは……』
おそるおそる目を開けると、狼青年はしゃがみこみ、不機嫌そうにマルセラを睨んでいた。
『仕方ねぇな。しっかり掴まってろ』
狼青年はマルセラを背負い、ちょうど襲い掛かってきた次の怪物を、片手でなんなく倒してしまった。
あの瞬間、狼の怪物は、マルセラの英雄になった。
ぼんやり霞かけた意識の中、必死で掴まっていると、黒い襟の中が見えた。うなじの下に、赤褐色の十字架が刻まれていた。周囲の皮膚がひきつれているそれは、古い火傷痕のようだった。
――夢は何もかも、あの時の事を忠実に再現しているのに、ジークの顔だけはいつも、赤い狼そのものになっている。
黒い退魔士の制服を着た人間の身体に、赤い狼の頭がくっついた姿だ。
そして夢は、いつでも十字架傷を見た場面で終わる。
しかし今夜は違った。
暗いモールの風景が消え、周囲の怪物たちも消える。
真っ白な空間の中で、赤い狼青年とマルセラだけが取り残された。
『ジークお兄ちゃん……?』
妙に心細くなり、広い背中にしがみつこうとしたが、すとんと降ろされた。小さな子どもになっているマルセラの頭を、赤い狼がポンポンと叩く。
『助けたぞ。お前の英雄になってやった』
『うん。ありがとう……やくそくしたから、わたしのもってるもの、なんでもあげる。
お母さんに、おしえてもらったから、おかしだって、つくれるよ』
くくっと、狼青年が笑った。
『いらねぇよ』
『でも……』
黒い上着を握り締めると、そっと振り解かれた。
『俺は強いんだ。一人で生きて行ける。弱いお前から貰うものなんか、何もねぇよ』