標的の桜貝 ☆-2
一時間程前、少女は帰宅する。
K駅から徒歩10分圏にある閑静な住宅街の一角に少女の家はあった。
「ただいま」
つい先程まで盗撮されていた事など知らず、少女は軽やかな気持ちで帰宅する。
理由は簡単、以前から気になっていたアロマオイル3種を手にしていたからだ。
さっそく自室のアロマポットで試してみたい衝動に駆られる。
少女が好むのは柑橘系の香りで、それはアロマオイルのみならず身に付ける香水も同様であった。
「お帰りなさい、お姉ちゃん」
あどけない笑顔で妹の汐莉が走り寄り抱きついて来る。
「ただいま汐莉、ところで若菜は?」
少女には双子の妹たちがいた。
「若菜ちゃんなら、お友達の家に遊びに行ったよ」
そう汐莉は寂しげに告げる。
双子の妹だが内向的な汐莉に対し、若菜は対照的に活発な少女である。
「汐莉、お姉ちゃんとお部屋でピアノの練習しようか?」
寂しげな汐莉を気遣い、恵利子はアロマを後回しにして妹を部屋に誘う。
「ほんとう」
汐莉は顔を輝かせ、姉の腕を引っ張りながらじゃれつく。
年が五つも離れている為、双子の妹汐莉と若菜はとても姉に懐いていた。
優しい笑みを浮かべながら汐莉と部屋に入る恵利子。
そんな良き姉である恵利子にも、決して人に言えない不満もあった。
それは自らの名前と双子の妹たちの名前についてである。
楽しい妹とのひと時を過ごしながらも、その名を口にする度に過る想い。
汐莉に若菜……
しおりとわかな、何とも愛らしい優しいふんわりとした響き。
漢字にすると尚更それが引き立つ。
それにひきかえ自分の名はえりこ。
何とも堅苦しい響き。
漢字にすると、恵利子と余計に堅苦しく感じる。
如何にも理屈っぽい可愛げの無い響き。
せめて恵利、できれば恵理であって欲しかったと常々思っている。
恵利子の“子”が、いかにも昭和っぽいと感じる。
平成4年生まれの磯崎恵利子は、密かにこの昭和っぽい名前を嫌っていた。
もちろん同級生に名前をからかわれたりした事が有った訳では無い。
ずば抜けた美少女と言う程では無かったが、その愛らしい容姿は十分魅力的であった。
加えてその容姿に高い学力と標準以上の運動能力、高次元で均整の取れた魅力は相乗効果を生み、少年たちの注目を少なからず集めた。
しかし少女にとっては、その“愛らしい”と言う褒め言葉でさえ微妙に感じられた。
成長に伴い“美しい”と言う表現に、少なからず少女の関心は移って行く。
そんな姉の心境を余所に、妹たちにとって優しく可愛らしい姉は憧れの存在であった。
特に汐莉においてはそれが顕著で、大好きな姉と少しでも一緒に居たい様子であった。
一時間ほど汐莉とピアノを弾きながら、おしゃべりの相手をしていると若菜が帰宅する。
若菜は帰宅するなり、汐莉同様の行動を取る。
(どうやら妹たちが就寝するまで、アロマの香りを楽しむのはおあずけね)
そう、密かに少女は肩を竦める。
それでも楽しい姉妹たちの時間が流れていく。
磯崎家の家族構成は公務員の父親に専業主婦の母親、長女の恵利子に双子の妹汐莉と若菜の5人家族である。
家族間の結びつきは強く、極力食事は全員で会話を持ちながらする。
週末も行動を共にする事が多く共有時間が非常に多い。
それは両親の教育方針の一環によるもので、互いに意思疎通が計られ些細な変化にも気が付きやすい。
さらに元教師の母親は古式ゆかしい日本女性で、優しくも厳しい教育方針で道徳面や貞操観念に対しての意識が高かった。
そんな両親の想いを真っ直ぐに受け止め、娘たちは何れも魅力的な少女に育って行く事になる。
特に長女の恵利子においては学力面に優れながら運動面にも秀で、母の望む内面的な魅力も育まれていた。
これは先天的な要素が多分にあったが、その容姿は陶器人形の様な愛らしさを持っており、正に非の打ちどころのない少女ぶりであった。
そんな恵利子にあって唯一のマイナス要素があるとすれば、思考に若干の隔たりがあり少々理屈っぽく、自らを美化し過ぎる点であった。
それは思春期の少女にとってはありがちな点であったが、成長に伴いさらなる偏りが見られる様になっていく。
モンゴメリー作“赤毛のアン”を地で行く様な夢見る乙女。
そんな恵利子が良く言えば理知的に、悪く言えば可愛げ無く理屈っぽい少女になるきっかけになったのは一冊の小説である。
同時にその小説は、恵利子の名前に対するコンプレックスを一掃する事になる。
図書室で偶然手にした“コンタクト”※)は、恵利子が今まで生きて来た14年弱の考え方を大きく変えさせた。
主人公である研究者エリナー・アロウェイ(愛称エリー)から大きな影響を受け、映画化されエリーを演じたジョディ・ フォスターに対して大きな憧れを懐くようになる。
そのジョディ・ フォスターは、映画“タクシードライバー”で、12歳の売春婦アイリスを演じた後、偏執的なストーカー行為を受ける。
更に映画“告発の行方”では第61回アカデミー主演女優賞を受賞するが、演じたのはレイプ・輪姦被害を受けるサラ役であった。
憧れた女優の受けた被害や演じた役柄の被害を、後日自身が経験する事になるとは皮肉な事である。
そんな理屈っぽい点を差し引いても魅力的な少女である事に変わり無く、一部成人男性の偏執的な欲望を痛く刺激するのであった。
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※)カール・セーガンによるSF小説。SETIプロジェクト、人類と宗教、科学、政治、地球外生命、などテーマが壮大である。