温泉休暇の大騒動-9
***
「エメリナくん!?」
いつのまにか増えてしまった見物人の中にエメリナを見つけ、ギルベルトの動きが一瞬だけ止まる。
「余所見してんじゃねぇ!」
打ち込まれた球を危ういところで返すが、視界の隅には、異国の浴衣に身を包み、頬を薄桃色に蒸気させたエメリナが、しっかりと写っている。
戦い続けろと叫ぶ人狼の本能と、今すぐ最愛の人へと駆け寄りたい人間の心がせめぎあう。
温泉を出た後、エメリナの姿が見えないので、館内を散策しているのかと思い、ここへ探しに来たのだ。
(――ああ、ちゃんと卓球もあるんだな……)
なぜか東の国では温泉に卓球はつきものらしい。
手近な台が一つ開いており、何気なくラケットを指で触った時、ふと台の向い側をジークが通りかかった。
彼もマルセラを探しているのか、きょろきょろと辺りを見渡しており、ギルベルトと偶然に目が合う。
その刹那、旅館の外に広がる雪景色が、二人の周囲を覆った気がした。
『あっ!?』
『おい……っ』
細い月光の下で、人狼の亡霊たちが薄っすらと浮かび上がる。
(新しい時代に復活した奇跡の子孫どもよ。|満月の決闘祭《フォルモント・ドゥエル・フェスト》の決着は絶対だ。双方に命が残ろうと、ぬし等は二度と死闘の再戦を許されぬ)
二人を取り囲む祖先たちが、重々しく咳払いをした。
(―――――が、血を流さぬ戦いならば、問題はなかろう!)
(この地に最も相応しき戦いが、お前たちの前にある!)
(さぁ! 人狼の血がたぎるまま、存分に戦うがいい!)
鋭い咆哮をあげ、人狼の薄い影たちは、雪景色とともに消え去る。
残されたギルベルトとジークは、卓球台と先祖たちが消えた空間を交互に眺めた後、互いに顔を見合わせる。
『……おい、やたらもったいぶった言い方してやがったが、もしかしてこれの事か?』
『どうやら、そうらしいな……』
ふぅっと、二人は同時に溜め息をつく。
――しかもあの先祖達……絶対に今、ルールを勝手に甘くしたよな?
しかし二人の内に宿る本能は、すでに耐え難く疼いてしまったのだ。
***
動揺を見せつつも、決定的な隙をつくらないギルベルトへ、ジークは舌打ちした。
「ちっ……って、マルセラ!?」
同僚に肩車されているマルセラを発見した瞬間、ジークの動きも鈍くなる。
(てめぇ!! なに勝手にマルセラを肩車してやがんだぁ!?)
理不尽な殺気を燃え上がらせ、同僚をギリギリ睨む。
マルセラの頬はピンクに上気し、可愛い浴衣姿が、常日頃の愛くるしさを倍増させていた。
今すぐ駆け寄り、返せと怒鳴りたかったが、寸でのところで踏みとどまった。
マルセラはが小さな両手を握り締め、緊迫した表情を浮べていたからだ。
凄まじい速さで打ち込まれた球を、危ういところで打ち返した。
(安心しろよ、俺はもう二度と負けねぇから!!)
マルセラが心の支えだった『英雄』を、ジークと引き換えに捨てようとした時の事を、決して忘れられない。
俺はなんて酷いヤツだと思う。……あの時、信じられないほど嬉しかったのだ。
――でも、もう十分だ。あんな顔は、もう絶対にさせてたまるか!
しかし、ジークの打ち返した球がコートに届く直前、凄まじい轟音と振動が遊戯室を襲った。
「っ!?」
バランスを崩した人々が卓球台へ倒れ掛かり、球はどこかにいってしまう。
次の瞬間、卓球室の奥側の壁に、大きな亀裂が入った。
客たちは知る由もなかったが、そこは洗濯物などを干す裏庭に面していたため、あえて窓は作られず、ただの壁になっていたのだ。
壁の外から、何かが強烈に打ち付けられているようだ。衝撃に負けた板壁は、無残な音を立てて裂けはじめ、漆喰と壁土がパラパラと上から降りそそぐ。
再び振動と轟音が室内を襲い、次の瞬間、壁に大穴が開いた。鋭い冷気と生臭い匂いが、一気に室内へ吹き込む。
そして巨大な豚の魔獣が、のそりと壁穴から姿を現した。黄ばんだ乱杭歯の並ぶ口からは、生ゴミのような臭気を漂わせ、ぼとぼと滴る唾液が床を汚す。
「オークだ!!」
客たちから戦慄の声があがる。愚鈍だが、貪欲な胃袋を持ち、餌で手なづけた飼い主以外は、容赦なく食い物と見なす危険な魔獣だ。
しかも豚魔獣は一体ではなかった。
壁穴の左右にも次々と新しい穴が開き、そこから別のオークが鼻面を突き出す。