温泉休暇の大騒動-11
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「――なんとお礼を申し上げれば良いか……」
女将というらしい旅館の女主が、広間で退魔士たちに深々と礼を述べる。
オークと魔獣使い達は、ふもとの役所からきた退魔士たちが連行していき、壁に開いた大穴は、予備のふすま戸や衝立で簡易的に塞いだ。
他の客や退魔士の家族は部屋に引き上げ、とっくに夕食をとっているはずだ。
「遅くなってしまいましたが、お食事の方は、別室にご用意いたしましたので」
「これはどうもご丁寧に」
隊長が敬礼し、退魔士たちは女将に案内されて廊下を歩き出す。
(今のうちに退散するか……)
彼らの後ろにいたギルベルトは、さりげなくきびすを返した。
つい、ジークと卓球勝負に熱くなったあげく、オーク退治まで手伝う羽目になってしまった。
これ以上ヘタに関わって、退魔士たちに正体がバレたら、目も当てられない。
どうやら女将は、ギルベルトも退魔士の一行だと思っているようだし、退魔士たちも『なんか成り行きで手伝ってくれた人』と、深く突っ込まないでくれているようだ。
だが、ギルベルトの前に、クマのような隊長が、のっそりと立ちはだかった。
「王都の中央西区署で第五部隊の隊長を勤めるローレンス・デル・レイと申します。このたびは、ご協力を大変感謝いたします」
「あ、いや……別に、そう大したことでも……」
しどろもどろに冷や汗をかくギルベルトの両肩を、ゴツイ両手がしっかりと掴む。そのまま隊長は、ズズイとヒゲ面を寄せた。
「突然ですが、退魔士の職に興味はありませんかな?」
「――は?」
「貴方でしたら、即日にでも退魔士への入隊を保証しましょう!」
「あの、すみませんが、俺はまったく別の仕事をしていまして……」
「ハッハッハ、転職も大歓迎ですぞ! 王都の退魔士は、深刻な人材不足でしてな」
隊長の眼光は、完全に獲物をロックオンした獣のそれだった。逃がすものかと、両眼がしっかり物語っている。
「い、いえ……」
助けを求めて周囲を見たが、退魔士たちの表情は生暖かかった。
――すいませんね、諦めてください。そして、仲間にようこそ!
「……っ!!」
ジークもさっきまで確かにいたのに、さっさと姿を消してしまっている。
「宜しければ一度ぜひ、体験入隊だけでも!」
「勘弁してください! 俺は考古学が気に入ってるんです!!」
半ば本気の悲鳴をあげ、ギルベルトはクマ隊長の手を振りきる。
「あっ! せめて名前と住所をーーーっ!!!」
響く太い声から、脱兎の勢いで逃げ切り、部屋に飛び込んで鍵をかけた。
部屋で待っていたエメリナが、目を丸くする。
「はぁっ……はぁ……」
――怖かった。本気で怖かった。
「先生、どうしたんですか?」
「ああ、ちょっと……」
あやうく、退魔士に転職させられる所だったとも言えず、額の汗を拭った。
「……ん?」
ふとエメリナの横を見ると、すっかり冷めてしまった食事が二人分、手付かずのままで膳に乗っていた。
すでにかなり遅い時間で、部屋には布団も敷かれている。
「待っていてくれたのか……すまない」
「せっかくの旅行ですから。それに先生の大活躍を見られて、大満足です」
可愛らしく微笑むエメリナを前に、我慢できなくなった。
湯の香りはすでに消えていたが、しどけない浴衣姿に眩暈がする。
畳に膝をつき、有無を言わせず抱き締めた。
「せんせ……んんっ!」
夢中で唇を貪った途端、くぅぅ……っと空腹を訴える音が聞こえた。
「っ!」
エメリナが両手でお腹を押さえ、赤面する。
「あの……ちょっとお腹が空いちゃって……」
「はは……お待たせしました」
正直に言えば、食事よりも彼女を貪りかったが、我慢我慢。
エメリナの向かいに座り、両手を打ち合わせた。東の国に習い、食事開始の挨拶をする。
「いただきます」
美しく盛り付けられた料理は、冷え切っていても、そこそこ美味しかった。
膳には東の代表的なカトラリーである箸が置かれていたが、使い慣れていない人のために、ナイフとフォークも付いていた。ギルベルトは久しぶりに箸を使って食事を取る。
エメリナは箸を使おうと四苦八苦し、あきらめてフォークとナイフを両手にとっていた。
「……箸って難しい。先生は上手ですね」
「始めて使った時は難しかったけど、慣れれば便利だよ」
右手を少しあげ、箸棒の持ち方を見せると、不意にエメリナの顔が強張った。ヒクヒクと頬が痙攣している。
「ん?」
「……うわっ……袖の奥がチラ見え……浴衣、最高!」
小声で呟いたエメリナの鼻から、つぅっと赤い筋が流れた。
「エメリナくん! 鼻血鼻血!」
――ああ、やっぱり。旅先でも、浴衣を着ていても、エメリナはエメリナだった。