凶暴回帰の満月夜-9
「せ、先生……?」
恐る恐る呼んだエメリナを、ギルベルトは一瞬だけチラリと見た。しかしすぐ、まるで興味ない対象だとばかりに視線を反らされる。
身体は荒い呼吸がふきかかるほど近くなのに、心はひどく遠い距離を感じた。
もうエメリナに視線すら向けず、慎重な足取りでギルベルトはジークへ近づいていく。
退魔士は絶命していなかった。瀕死で起き上がることもできないのは明らかだが、まだ口からは細い呼吸が漏れ、時おりごぼりと血を吐く。
意識すらないだろうジークに、人狼はとどめの一撃ををくわえようと、血染めの牙を剥いた。
ゾワリと悪寒が全身に走った。
「やめてぇぇぇぇぇ!!!!!!」
自分でも驚くほどの勢いで、とっさにエメリナはギルベルトへ体当たりしていた。
両手首を戒められたまま、暗灰色の毛皮に覆われた横腹に身体ごとぶつかる。
不意を喰らった狼は一瞬よろめき、唸り声をあげてジークから狙いを外した。
「ぐっ!!」
倒れたエメリナの胸を、重い獣の前足が踏みつけた。
狼の両眼は怒りに満ち、ギラつく殺気が全身をすくみあがらせる。
大好きな琥珀色の瞳は、狼になっても変わらなかったはずだ。なのに今は、禍々しい金色の光を帯びて、虫けらを見るように轟然とエメリナを見下ろしている。
「邪魔しちゃ駄目なの、解ってます……けど……」
目じりが熱くなり、涙が止められずに零れた。
この身に迫る死とは違う恐怖に、心臓がつぶされそうだ。
ただ感じるだけなのに、確信があった。これが最後のチャンスだ。
止めなければ、ギルベルトは……。
「ここで殺したら……先生はきっと、戻れなくなる……完全に人狼になる……」
暗灰色の狼が唸り声をあげる。
それこそ俺の望みだと言うように……。
唾を飲み、震える声で抗議した。
「先生は、言ってくれたじゃないですか。助手が見つかったから、学者を続けられるって……」
今夜、信じられないほどギルベルトは生き生きとしていた。
他種族から見れば無意味な殺し合いでも、人狼にとっては、重要な意味を持っていたのだろう。
戦闘を好み、力で全てを手に入れ、己を最強の種と自負していた彼らにとっては、同族との死闘こそ究極の喜びであり、生きる意味を実感できる手段だったのかもしれない。
「先生……っ!」
返ってくるのは獣の唸り声だけだ。
胸を踏みつける前足に力がかかり、息苦しさと痛みに呻いた。黒い鼻先が近づき、血臭が濃く漂ってくる。
『ーーいっそどこか、秘境にでも引き篭もろうかと思った』
軽い調子で言っていたあれは、まぎれもない本心だったのだろう。
時代を間違えて産まれてしまった人狼は、この都会で人間のふりをするのに、疲れきっていた。
家族や親戚すらも全て捨て、秘境で人狼として生きるほうが幸せかと、幾度も悩んだに違いない。
「私……先生が大好きです……機械音痴でも、たまに狼に変身しても……」
愛しているなら、相手の幸せを一番に考えるべきだと思っている。
足手まといになったり、相手を束縛したりなど御免だ。
完全な人狼として生きるほうが、ギルベルトは幸せなのかもしれない。
彼の人生を決めるのはエメリナではなく、彼自身だ。
それでも……少しでも、ギルベルトがまだ迷っているなら……
『この時代に自分を適応させる助手がいれば、人間として暮らすのも悪くない』
ほんの少しでも、そう思ってくれるなら、声を限りに何度でも懇願する。
「お願い……!!私の、ギルベルト先生でいてください……!!!」
暗灰色の狼は前足を退けた。
そしてカッと大きく口を開き、エメリナの胸元めがけ、血に染まった鋭い牙を剥いた。