初―うぶ―-1
その日は朝から、洗濯物がよく乾きそうな青空が広がっていた。
野村紗耶香(のむらさやか)は物干し竿のあるベランダに出ると、外の空気を胸いっぱいに吸い込んで、二階から見える景色に目を細めた。
ありふれた朝の風景ではあるが、窮屈な賃貸アパートからマイホームへ引っ越したことで、その眺望にさえもときめいてしまうのだった。
「さっさとやっちゃいますか」
カラフルなハンガーを片手に、張りきり方にも可愛らしさがのぞく、まだ二十五歳の新婚である。
小学校から高校までをお嬢様学校で過ごしてきたので、それなりの教養と容姿も備わっている。
頭が良くて美人だという噂は、大学に通いはじめた途端に、女性誌の読者モデルというかたちで花開いた。
それでも紗耶香は、おごったふうな態度で振る舞うわけでもなく、くだけた感じでまわりと接することが普通にできていた。
そんな彼女のことを射止めたのが、今の夫である健吾(けんご)だった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「もし残業のときは、メールをしておくから」
「うん、わかった」
ビジネススーツに身を包んだ健吾を見送ると、紗耶香はエプロンを手早くたたんで、よそ行きの身支度をはじめる。
化粧気のないままでもじゅうぶん見惚れてしまうほどの顔に、淡いパステルカラーが施されていく。
異性を振り向かせるためにメークをしているという意識は、紗耶香自身にはあまりない。
せめて恥をかかないために、という程度の感覚なのだ。
「自治会の役員の集まりがあるのだがね」
先日、自治会長の島袋慶次(しまぶくろけいじ)と立ち話をしていたときに、彼の口から出た台詞だった。
自治会の役員のことなどはすべて夫の健吾にまかせてある。
その日は夫は仕事で出られないと紗耶香が言うと、
「代わりに奥さんが来ればいい」
温厚な口調とやわらかい表情で、高齢の自治会長は紗耶香に出席を促してきた。
世間知らずなところがある自分のことをよく知っている紗耶香は、これが良いきっかけになればいいという思いから、前向きな返事をしたのだった。
約束の時間よりも少し早めを意識して紗耶香は自宅を出た。
ご近所さんたちの輪の中にうまく溶け込むには、こうした意識の積み重ねが大事なのだと、新妻なりにアピールの仕方を分析していた。
初々しい雰囲気をまとったまま、こつこつと靴音を鳴らして島袋家の門を目指して歩く。人通りも落ち着きはじめる時刻である。
建ち並ぶ住宅の中に『島袋』の表札を見つけると、紗耶香の表情がにわかに堅くなった。
夫の代役が女の自分に務まるのかどうか、ここへ来て急に不安な気持ちが強くなったからだ。
あのときどうして断らなかったのかと、少しの後悔を胸に秘めたまま、門のインターフォンを鳴らした。
しばらくして音声のつながる気配があり、はい、と太い声で応答があった。