山だし-2
ある日の夕方、私は駅のホームで偶然サトエと出会った。
「あ……」
「あれ?」
二人して指を指し合って立ち止まった。
彼女は紺のスーツ姿でボストンバッグを提げていた。
私は軽く頭を下げながら、
「里見です」
言ってからなぜか顔に熱を感じたのを憶えている。
「里見くんっていうの。いつも来てくれてありがとね。他の友達は?」
「授業がちがうから」
「そうか。高校じゃないもんね」
意外だったのは顔をくしゃくしゃにして笑顔を見せたことである。店では口元から前歯が覗いたことさえなかった気がする。
(こんな明るい表情をするんだ……)
見慣れないシックな服装といい、また外にいる雰囲気の違いからか、とても新鮮な印象を感じた。
「お店は?」
「これから山形帰るのよ」
「辞めるの?」
「ちがう、ちがう」
母親が危篤なのだとサトエはあっけらかんとして言った。
「それじゃ大変だ」
「いやあ、ずっと病気で、覚悟してたから。齢も齢だし……」
電車に乗り込む時、バッグを持とうと手を差し出すと、彼女は素直に厚意を受けた。
「ありがとね。嬉しいね」
相好を崩して白い歯を見せるのだった。
上野でいったん改札を出たサトエは中央口のチケット売り場に向かった。私は彼女のバッグを持ったまま後に従ったのだが、なぜそうしたのかよくわからない。初めて彼女のやさしい一面に接して、何となく温かな想いを抱いていたような気もするし、死を目前にした母親の元へ夜汽車で帰郷するという少々の感傷に浸っていたのかもしれない。サトエも何も言わなかった。
窓口から戻ってきたサトエは小さく溜息をついた。
「里見くん、ありがとね。一緒に来てくれて心強かった」
ほっとした表情をみせて駅の時計を見上げた。心なしか瞳が潤んでいるように見える。内心、気持ちは揺れていたのだろう。
「指定取れたからひと安心。まだ時間あるなあ」
「サトエさんの田舎って、どこですか?」
「あら、名前憶えてくれてたの?」
恥ずかしそうに笑ってほんのり頬を染めた。店で名前を呼ぶことはないので照れ臭かったようだ。
「寒河江って、知らないでしょ?山形からまた奥」
発射時刻を訊くとまだ二時間もある。
「何時頃着くんですか?」
「明け方だな……」
言いながら視線の定まらない目を遠くに向けた。
喫茶店に誘ったのは私である。
「付き合ってもらっちゃって悪いわね」
ちょっと首をかしげた仕草が年下のように可愛らしく見えた。
サトエは五人姉妹の末っ子で、一番上の姉とは十六も齢が離れているという。
「よほど男の子が欲しかったんだろうね。あたしを産んだ時、母親は四十過ぎてたからね。だけどその仕舞いっ子があたしだもん。がっかりしただろうな。おまけにブスだもの。姉ちゃんたちは色白で美人だよ。ほんとに」
「サトエさんだって色白ですよ」
「山形じゃたいてい色は白いさ。雪国だもの」
二年前に上京してきた。
「恥ずかしいけど、あたし、来年で三十よ。もうオバサンだね」
上目使いで私を見て笑いかけて俯いた。
東京へ出てきたきっかけを訊ねると、多くは語らなかった。
「いろいろあってね……」
最初は別の仕事をしていたのだが、叔父に説得されて『L』に勤めるようになったと話した。
「田舎者は東京のペースを知らないからって……。たしかにそうだと思ったね……」
人それぞれ、他人には窺い知れないものを持っている。いくつもの経験をして、結果として何かを背負い、あるいは喪い、また傷ついたりして生きてゆく。
この時の短い時間の中で私が彼女の何を知ったわけではない。だが、ときおり過去を振り返るような翳を見せて黙り込むサトエを見つめながら、改めて、誰もが違う道を歩いているのだなと漠然とした重さを感じたのだった。
取り立てて盛り上がった話はなかったが、私たちの会話はほとんど途切れることなく続き、発車間近まで店にいた。まるで一緒にいることが当然のように……。
ホームに向かいながら小走りになった。
「大丈夫?間に合う?」
「うん。余裕。始発だから」
列車に乗り込むと同時にベルが鳴った。
「それじゃ、また。今日はすいませんでした」
サトエはバッグを受け取りながら仰々しく礼を言った。
「お母さん、よくなるといいね。お大事に」
サトエは答えず、弱々しく口元をゆるめただけだった。
二日後、仲間と店に行くと三日間臨時休業の案内がシャッターに貼ってあった。
(死んだのだな……)
私はまだ若く、死ということに実感もなく、ただサトエの悲しむ顔だけが想像された。
「なんだ、休みだって」
豊田も井坂も興味がなさそうに歩き出した。私はあえて何も言わなかった。