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「この店に、月島才子という若い女性が来ているはずなんだけどね」
沢田透はカウンターに身を乗り出して尋ねた。
「あたしは知らないわよ。大体お客の名前なんて、そんなのいちいち覚えてらんないわ」
アゲハは煙管(きせる)片手にかるくあしらう。
そしてさり気なくナオミとローズに合図を送る。
「ここにいるっていう匿名のタレコミがあってね。我々としても動かないわけにはいかなくなった、とまあ、そういうことだ」
大上次郎は、わざと抑揚のない物言いをした。
「その女の人が何をしたのか知らないけど、冤罪を生むのだけはもう勘弁してよね。あなたたち警察のにんげんはね、一般市民から反面教師にされているのよ。これって、どういう意味だかわかるかしら?」
たかがニューハーフのママからそんな説教を聞かされて、大上と沢田はリアクションに困った。ビールの一杯でも飲みたい気分だった。
その時、店内の照明がふっと消えて、次の瞬間には悲鳴が飛び交っていた。
グラスをひっくり返す音、走りまわる足音、そしてドアの閉まる音がした。
それから数秒のあと、何の前触れもなく店内はまた明るくなり、騒ぎもおさまった。
カウンターの奥でただ一人、アゲハだけがポーカーフェイスで佇んでいる。
背後の壁には照明のスイッチがあり、そこに目をつけた大上は、
「やりやがった」
悔しそうに歯ぎしりをした。
今の停電の騒ぎに紛れて、才子は店の外へと逃がされていたのだ。
大上はそのまま沢田を連れて、振り返ることなく店を出た。
ざまあみやがれ、というブーイングが沢田の背中に命中した。