天ヶ瀬若菜の憂鬱 第2話-1
駅近くにある小洒落たカフェが待ち合わせ場所だった。若菜は車で駅の改札口まで送ってもらうと、用事が済んだら連絡すると言って運転手を帰らせた。
若菜が喫茶店のドアを開け、キョロキョロと辺りを見渡すと、
「ここです!天ヶ瀬さん!」
若菜を呼ぶ女性の声が聞こえた。若菜が視線を向けると、そこには黒縁メガネを掛けた女性がいた。それはあの時若菜を診察した『光了橋良子』という女医だった。
グレーのチュニック、中途半端な丈の黒いスカート。全体的に曇り空みたいな服装の良子先生は誰から見ても地味な女性という印象しか与えない。
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若菜は良子さんの前にある椅子に座った、と同時に良子さんがメニューを差し出し、若菜に尋ねる。
「なにか飲みますか?」
「それじゃあ…、バナナジュースとベイクドチーズケーキを。」
若菜がメニューをパタンと閉じると店員がやってきて、良子さんが若菜の注文を店員に伝える。
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店員が注文の品を持ってくるまで、お互い無言のままだった。
「どうぞ。」
店員が注文の品を若菜の前の置いた。若菜がようやくやってきたチーズケーキにフォークで切ろうとするとき、良子さんが口を開いた。
「あの…!」
「獣姦のこと聞きたいんでしょ?それはかまわないけど、どうしてそんなこと聞きたいの?私も逆に聞きたいんだけど。」
良子さんがなかなか本題を切り出さないタイプだと見越して、若菜は良子さんが聞きたいことを先に言ってから、逆に良子さんへ質問する。
良子さんはずっとうつむいたまま何も話さなかった。その間に若菜は出されたケーキを全部平らげ、ストローでバナナジュースを飲んでいた。
「もう帰っていい?」
バナナジュースを一口残し、若菜が良子さんに言った。
「あの…、変だなんて言わないで下さいね?」
うつむいたままの良子さんが消え入りそうな小さい声で若菜に言った。
「言わないわよ。私はあなたよりずっと変だしね!」
若菜は笑って言った。やっと頭を上げた良子さんはボソボソと小さな声で若菜に話始める。
「あの、私、5歳になるゴールデンレトリバーを飼っているんです。」
「へー、ああ…。うん、続けて。」
と突然、良子さんは一度、唇をキュッと噛みしめた後、胸の内を吐き出すように若菜に言った。
「私、その…。ロンが好きなんです!愛してるんです!」
何かを覚悟したような良子さんの表情を見て、ペットの犬のことを話すような軽いはなしではないことを察した。
「ああ、ロンというのは、そのレトリバーの名前ね。いいわよ、全部話してみて?」
一度、胸の内を吐き出した良子さんは覚悟でも決まったのか、胸の内に抱える悩みを若菜にぶつける。
「はい。ロンは元々盲導犬になる予定で、大人になるまで実家で飼ってた犬だったんです。でも、試験に落ちてしまって…。ロンは賢い犬だから、試験に落ちたことが分かるんでしょうね。見る間に元気をなくしてしまって…。うちの両親も一生飼い続けるつもりがなくて、どうしようかと悩んでたんです。それで、ロンもそういう雰囲気察したんでしょうね、ますます元気が無くなっていったんです。その頃、ちょうど私が一人暮らしすることになって、ロンを連れていったんです。」
そこまで言うと、良子さんはコップの水を一息で飲み干した。
「なぜか私、男の人と同棲してる気分になってました。家に帰るとロンが玄関までやってきて、そんなロンが可愛くて、ロンにキスしたりして…。私もなんだか本気でロンのことが好きになってきて…。そこは自分でもわからないんです。一緒に暮らしている犬に愛おしさを感じるなんて、私も変だとは思うんですけど…。」
そこまで話すと、良子さんはまたうつむいてしまった。若菜はコップの底に残ったバナナジュースをストローでズズッと飲み干す。
「変じゃないわよ。好きになる、愛おしくなるは人間の自然な感情だし。」
良子さんが若菜に言って欲しいと望んでいる言葉。若菜はその言葉を良子さんに言った。