ほ乃花-9
「ところで、あらためて不妊治療のお話をさせていただきますが──」
若い医師は手を前で組んで姿勢を伸ばした。
「体外受精という選択肢もありますが、いかがですか?」
「ということは、私の卵子はまだ大丈夫だということですか?」
「不妊治療が実を結びました。おめでとうございます。あなたの体はいつでも妊娠できる状態にあります」
そうなのだ──。
私の卵子はかなり弱っていて、精子と結びつくことがむずかしいと診断されていた。
しかし彼らのアプリ治療のおかげで卵子が活性化して、自然妊娠はむずかしいものの、体外受精した受精卵をふたたび子宮へ戻してあげれば、私は晴れて母親になれるということだった。
女性であることを尊重された喜びと、今まで積み重ねてきた治療の副作用を思い出し、私はまた涙を流した。
「余談になりますが、精子バンクに保管されている精子は『冬眠状態』と呼び、また卵子の場合は『春眠状態』と言います。我々医師のあいだでしか通用しない隠語のようなものですが、なかなか良い表現だとは思いませんか?」
彼の口調にはどこか緊張を解くやさしさが含まれていて、涙腺の弱くなった私はハンカチが手放せなくなっていた。
***
***
今ではまったく使われなくなった病棟の一室に幽閉され、レイプ同然の忌まわしい不妊治療を受けた記憶も、忙しい日々の中で少しずつ薄れていくのだろう。
退院を見届ける看護スタッフの前で、重ね重ね腰を折る私。
真新しい気分で春の陽気の中を歩き出す。
「おかえり、奈保子」
木の枝の恒(ひさし)の下、萌える新緑を笠に被った彼がそこにいた。
「ただいま、篤史さん」
恋しい思いを募らせた私は、車椅子の彼の元へと駆け寄る。
ありふれた出会いから恋愛を成就させて、あの日、お互いの未来を約束した直後に私たちは事故に遭った。
私は無傷で済んだけれど、彼のほうは下半身不随になってしまい、同時に生殖能力も失った。
しかし彼はこうして生きている。
奇跡的な事実はまだあった。
事故に遭う前に彼は精子を採取されていて、それは今も精子バンクで冬眠しているのだった。
だからこそ私は不妊治療を望み、賭けて、新しい命を育んでみたいと決心できたのだ。
「なんだか今でも信じられない気分だけど、あなたの言う通り、もっと早いうちに不妊治療をはじめていればよかった。だって私、こんなにも幸せなんだもん」
あの夢のはじまりで私自身が言った台詞を、今度は何の疑いもなく彼に報告できていた。
私は思う。これが夢なら覚めないで、と。
ふと、道端の雑草の中に四つ葉のクローバーを見つけた。
するとどこからか赤いテントウ虫がやって来て、迷わずその葉にとまった。
それはあの病院で出会った四人の面影と重なり、姿なき産声を私に聞かせた。
きっと、かけがえのない命が生まれたという、虫の知らせだったのかもしれない。
おわり